元素インデックスへ閉じる挑戦は終わらない、夢がある限り 考古学者 吉村作治さん 考古学者 吉村作治さん

日本のインディ・ジョーンズとも称される考古学者の吉村作治さんが、少年時代からの夢だったエジプト行きを初めて実現させたのは大学生のとき。それから40余年、エジプトのダハシュール北遺跡で未盗掘の完全ミイラを発見するなど数々の快挙を成し遂げ、世界的注目を浴びている吉村さんに、エジプトへの思いや夢、元気の秘訣についてお聞きした。

10歳のときに読んだ1冊の本がエジプトへと導いた
1996年、ハイテク技術を駆使して発掘した「ダハシュール遺跡」  小学生のころは運動も音楽も苦手で、放課後はいつも学校の図書室で過ごしていました。とにかく様々な本を読みましたが、中でもお気に入りだったのが伝記シリーズ。司書の方から「人生は一度きりでうまくいかないことも多いけれど、伝記本には最終的にうまくいった人の話ばかりが書いてある。おもしろそうな人生があったら真似してみるのもいい」と言われたんです。「なるほど」と思い、数十冊の伝記本をすべて読破しました。
  中でもいちばん気に入ったのが、4年生のときに読んだ「ツタンカーメン王のひみつ」という、イギリスのエジプト学者ハワード・カーターがツタンカーメン王の墓を見つけたときの発掘記です。もちろんその当時は考古学なんてわかるはずありませんが、とにかくピラミッドがいっぱいあるエジプトに行ってみたいと思ったんです。

 それ以来、エジプトへの興味が失われることはありませんでした。大学へ行こうと思ったのも、エジプトについて勉強したかったから。最終的には早稲田大学に入学するわけですが、そもそもは東京大学に入ろうと思っていたんです。で、3回浪人して計4回受験しましたが、すべて落ちました。ただ、そのことで落ち込んだり、暗くなったりすることはなかったですね。私は、挫折というのをあまり感じないんです。だから、東大に入れなかったことも「自分とこの大学は合わない」くらいにしか思いませんでした(笑)。

初めてエジプトに着いたときはホッとしました
 大学に入ってからは、同じようにエジプトに興味のある学生たちと一緒に、勉強会を開いたり、アルバイトをして渡航費用を稼いだりしながら、エジプト行きの準備を進めました。当初は30人くらいの仲間がいたと思います。でも、最終的に残ったのは5人だけ。多くの仲間が挫折していきました。理由はわかりません。というよりも、私は人のことは気にしないんですよ。一緒にやりたければやるし、やれないんならそれもいい。すべて自分の意思で決めればいいことだと思っています。
  最初のエジプト行きでいちばん苦労したのは、やはり渡航手段の確保です。とにかくお金がなかったので、無料で飛行機に乗せてもらおうとあちこちお願いしましたがダメでした。それで、客船ならと思いましたがこれもダメ。最後に、運輸会社に頼み込んで小さなタンカーに乗せてもらえることになりました。おかげで往復運賃は無料。普通なら絶対にあり得ないことで、例外中の例外だと思いますが、本当にありがたかったですね。
吉村作治さん

 タンカーでクエートに着いてからは、バスでベイルートまで移動して、そこから船でアレキサンドリアへ渡り、最後は汽車でカイロへたどり着きました。日本を出発してから3週間。エジプトへ着いたときは感動するより何より、まず「やっと着いた」とホッとしましたね。もちろん、移動中も楽しかったですよ。勉強したり、討論したり、音楽を聴いたり、普通の人にはできない経験ですし、とても充実していました。

大事なのは「絶対にやれる」と信じ続けること
吉村作治さん  エジプトを旅して感じたのは、とても宗教心の強い国だなということです。道ばたでも普通にお祈りをしているし、会話の端々に宗教の言葉が出てくるし、国民全体があそこまで宗教心が強いということに驚きましたね。それと、あの国はお酒を飲まないんですが、それでよくあそこまで喋れるなと(笑)。とにかく様々な文化の違いにふれて、大いに感銘を受けました。
  結局、7カ月間の滞在期間中にエジプト全土をまわり、たくさんの発掘現場を見て、自分もここで発掘するんだと心に決めました。まだ大学生でしたし、無謀な挑戦だと思う人もいたかもしれません。でも、自分は「絶対にやれる」と信じていたんです。そういう考え方は今も変わりませんね。他人がどう思おうと、あきらめなければやりたいことはやれるんです。

 1974年にルクソールのマルカタ南にある「魚の遺跡」で彩色階段を発見したときもそうでした。なかなか思うような成果を出せず、当時の文部省からも「このまま成果が出なければ補助金を打ち切るしかない」と言われていたんです。しかも、中東戦争が勃発して発掘作業が一時中断する事態に追い込まれました。でも1週間で戦争が終わって、すぐに作業を再開することができた。「戦争が起きたのに発掘ができるなんて、神様が応援してくれているに違いない」と思いました。結局、最終日に彩色階段を発見。劇的でしたね。
  もちろん、どれだけ掘っても出ないことだってあります。ただ、それは今年出なかったというだけのこと。次は出るはず。いや、必ず出るから大丈夫。そう言い続けるんです。で、本当に出たら「ほらみろ」と(笑)。

ハイテク機器を駆使して数々の世界的な遺物を発見!
 印象に残っている発見のひとつは、1987年に「クフ王の大ピラミッド」で見つけた第二の「太陽の船」です。この場所ではすでに「太陽の船」が発掘されていたのですが、私は「ピラミッドには左右対称の装置があるはずだ」という仮説を立て、調査を実施しました。このとき使用したのが、地中に数千本の電磁波を瞬間的に流して戻ってきたデータを解析する「電磁波地中レーダー」という装置です。これを駆使した結果、以前に「太陽の船」が発掘された場所の反対側から、幻とされていた第二の「太陽の船」を見事に発見しました。
  その後も「電磁波地中レーダー」はもちろん、1996年にダハシュール北地区で大規模な貴族の墓を見つけたときには人工衛星の画像解析を利用しましたし、2001年に世界に3体しかない「クフ王の銘が入った彫像」を発見したときもハイテク機器をフル活用しました。こうした私の手法に対して、当初は「考古学にハイテクなんて・・・・・・」と批判的な人もいたんです。ただ、人が考えつかないようなことをやってきたから今の私がある。このことは自信を持って言えますし、実際に私がこれまでエジプトで発掘した遺物の数は世界トップですから。
ダハシュール遺跡で
欲しいからではなく、知りたいから掘り続けるんです
多忙な日々の中で、趣味の陶器の絵付けも/趣味と実益をかねた絵画作品。個展も行っている  エジプトには分配権があって、発掘した人が50%もらうことができるんです。欧米には、そうやって手にした遺物を売却して活動資金にしているところもありますが、私はこのやり方には賛成できません。だって、出たものはすべてエジプトのものでしょう。そもそも私は、欲しいから掘っているわけではなくて、知りたいから、探求心を満たしたいから掘っているんです。だから、発掘したものは一切もらいません。
  大変なのは、やはり活動資金を確保することですね。だいたい、年間に1億円くらいかかりますから。発掘を続けていくには精神力、努力、運、組織などが必要ですが、やはりいちばんはお金。それは偽らざる事実です。もちろん、文部科学省から科学研究費という形で支援してもらっていますが、それだけではぜんぜん足りません。だから、自分でつくる。テレビ番組に出たり、本を出したり、講演を行ったりするのも、正直な話、活動資金のためです。コマーシャルもそう。アイドル顔負けですよ。5本ものテレビCMに出ているんですから(笑)。

 水彩画を描いたり、陶器を焼いたりもしますが、どれも趣味というわけではなくて、作品を売って活動資金を稼ぐため。料理もしますが、それだってレストランを経営するために始めたことです。とにかく、稼ぎ方はどんな形でもかまわないと思っています。お金はどう使うのかが大事。私は10歳で描いた夢を叶えるために突っ走ってきました。大事なのは継続すること。そして、夢を見続けることだと実感しています。その夢がなくならない限り、これからも他人を気にすることなく、やりたいことをやり続けるでしょう。それが私の生き方です。

プロフィール
考古学者 吉村作治さん

1943年、東京都生まれ。1966年、アジア初の早大エジプト調査隊を組織し現地に赴いて以来、40年以上にわたり発掘調査を継続、数々の発見により国際的評価を得る。世界に先駆け、人工衛星の画像解析などハイテクを導入した調査によって、1996年ダハシュール北遺跡を発見。2005年1月には未盗掘・完全ミイラ「セヌウ」を発見するという快挙を成し遂げた。さらに2007年1月、同遺跡から夫婦と見られるもの2つを含め計4つの未開封木棺を発見、世界的注目を浴びている。現在、「セヌウ」のミイラマスクを含む発掘成果を日本全国の博物館で巡回展示中。2007年4月、株式会社で運営する日本初・完全インターネット講義による『サイバー大学』を設立、初代学長に就任。著書「ミイラ発見!!私のエジプト発掘物語」(汐文社)他、多数。

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発行/(財)生命保険文化センター  Interview & Writing/福田智生  Photo/吉村隆 Editor/宮澤省三(M-CRUISE)  Web Design/Ideal Design Inc.