可能性がある限りは絶対にあきらめない!それが輪島功一流です/スポーツジム会長 輪島功一さん
ボクシング世界ジュニア・ミドル級(現スーパーウェルター級)チャンピオンとして6度の防衛に成功するなど世界の頂点を極め、現在はスポーツジムの会長として後進の育成にあたっている輪島功一さん。現役時代、2度のリターンマッチでタイトルを奪還して「炎の男」や「不屈の男」とも呼ばれた輪島さんの生き様から、人生において大切なものとは何かを探った。
生涯初のKO勝ちは卓球台を賭けた「決闘」でした
WAJIMA 輪島功一さん 講演会などに出かけると、「子どものころから暴れん坊だったの?」と聞かれることがあるけれど、答えはノー。気性は荒いほうだけど、決して暴れん坊とか不良だったわけではないんです。ただ、中学3年生のときに、一度だけ殴り合いのケンカをしたことがあったね。それは、体育館の卓球台を賭けた「決闘」。
  私は北海道の士別で育ったんだけど、当時、雪国の少年にとって冬季の数少ない楽しみのひとつが卓球だった。ところが、ある「暴れん坊」が学校の体育館にある卓球台を占領しているという。しかも、文句があるなら「腕づくでこい」と言い放ったらしく、仲間を代表して私が決闘することになったんです。
  腕っぷしには自信があった。学校が終わると、大人たちに交じってイカ釣り漁船で働いていたんですが、海中に垂らした仕掛けは半端じゃなく重い。顔を真っ赤にして全力で踏ん張らないと引き上げられない。もう手足はパンパン。そういう作業を毎日繰り返していたので、体力や根性には自信があったんです。
  結果、決闘は私の「KO勝ち」。めちゃくちゃに左こぶしを突き出したら、これが見事に相手の右頬にヒットして終わりです。あっという間の出来事。このとき、後の世界王者に初めてKOされた「暴れん坊」は、話してみるといいやつで、この一件以降はすっかり仲良くなりましたね。
上京。職を転々とする日々。ボクシングとの出会い
WAJIMA 輪島功一さん 17歳のときに上京してからしばらくは、親戚に紹介してもらった自動車整備工場で働いていました。もともと機械好きだった私にとっては、とてもやりがいのある仕事・・・・・になるはずが、雑用ばかりをやらされて、なかなか技術を教えてもらえない。結局、1年も経たないうちに辞めました。その後は、ガソリンスタンドや牛乳店、自動車部品会社などいろんな仕事に就きましたが、どれも長続きしなかった。何かが違ったんですよね。体力や気力が有り余っていて、もっと歯ごたえのある戦いがしたかったんだと思う。
  そんな毎日が一変したのは、ボクシングと出会ってから。当時働いていた土木会社の近くにボクシングジムがあったんです。ある日、ジムの前に大勢の人が集まって騒いでいる。何だろうと思ってのぞいてみると、引き締まった身体の男が天井から吊された革袋を叩いていたんだよね。その人こそ、東京オリンピックのバンダム級金メダリスト・桜井孝雄選手だったんです!
  といっても、仕事ばかりでほとんどテレビを見ていなかった私が桜井選手のことを知るはずもない(笑)。それでも、軽快なフットワークと、切れのいいパンチを初めて見たときには、心に響くものがあったんです。このスポーツに何よりも必要なのはおそらく気力だろう。それなら、自分にぴったりなんじゃないかと。
あきらめない気持ちが遅咲きのチャンピオンを誕生させた
WAJIMA グローブ その直感は間違っていなかったね。入門当時24歳という超スロースタートだったにもかかわらず、デビューから勝ちまくり、12連勝で日本チャンピオンのタイトルを獲得した。といっても、いつまでも調子に乗っていられるほど甘い世界ではありません。次の試合で、ノンタイトルながら現役の世界王者と対戦した私は、わずか1ラウンドでKO負けを喫してしまったんです。
  このとき、たくさんの人から引退を勧められました。「もう十分だろう。25歳でデビューして日本チャンピオンになっただけでもすごいことだ」というわけです。逆に闘志が沸いてきました。「冗談じゃない。一度負けたくらいでやめられないし、ここで逃げたらただの弱虫だ」。余談ですが、私は防衛に失敗した世界チャンピオンのタイトルを2度にわたって取り戻しています。その原動力が絶対に逃げない、あきらめない気持ちだったことは間違いないです。
  勝利への執念とは対照的に、お金に関してはほとんど執着がありませんでした。1971年に東洋チャンピオンの金澤英雄選手と対戦したときもそう。この試合、自分のファイトマネーはゼロ。もちろん、事前に了承していたことです。その代わりに「勝ったら世界チャンピオンに挑戦させる」ことをジムに約束させていました。
世界チャンピオンを驚かせた「カエル跳び戦法」
WAJIMA 輪島功一さん そしてこの年の10月、世界ジュニア・ミドル級王者のカルメロ・ボッシ選手を下し、私は世界チャンピオンにまで上り詰めるわけです。ノーファイトマネーで闘った私の気持ちに応え、世界タイトル挑戦を実現してくれたジムの三迫仁志会長には本当に感謝しています。
  ボッシ選手とのタイトル戦で、私は初めて「カエル跳び」を使ったんです。「カエル跳び」とは、ご存じのかたも多いと思いますけれど、お尻が足首につくほどしゃがみこんで跳び上がりざまにパンチを繰り出す戦法のこと。といっても、あれは事前に練習していたわけじゃなくて、本番のリングでとっさに出たものなんです。
  リーチの長いボッシ選手とまともに打ち合っても有効打は決まらない。そこで本能的に「カエル跳び」戦法を繰り出すと、これが見事に決まり相手の顔面をとらえたじゃないですか。この破天荒な攻撃に王者は驚き、次に怒って冷静さを失うのがはっきりとわかりました。
  「カエル跳び」に限らず、私は現役時代、ほかの選手が絶対にやらないような戦法を数多く取り入れていました。それは、ときに体格差のハンディを埋めるためのものであり、ときに試合の流れを自分に引き寄せるためのものです。そういう私の戦い方を「あれは正統なボクシングじゃない」なんて言う人もいたけれど、まったく気にしなかった。何もしないであきらめるよりも、可能性がある限り、不格好でもいいからやれることはすべてやる。それが輪島功一流なんです。
「老いも若きも」をキャッチフレーズにジムを開設
WAJIMA  33歳で現役を引退した私が最初に考えたのは、「次に何の仕事をするか」ということ。正直なところ、あわてて働かなくても家族5人が食べていけるくらいのお金はありました。ただ、働かない生活を一度でも経験してしまうと、それが癖になってしまうのが怖い。
  それで、半年ほど修行した後、夫婦で「だんご屋」を始めたんです。とにかく安くてうまいのがウリ。ほかのお店が1本60〜70円のところを30円で売っていたから、ほとんど儲からない。夫婦で製造から販売まで全部やって、なんとか利益が出るくらい。それでも、お金を儲けるために始めたお店ではなかったし、毎日買いに来てくれるおばちゃんがいたりしてお客さんが喜んでくれていたので、それでいいと思っていました。
  その後、東京・吉祥寺(現在は西荻窪に移転)に「輪島功一スポーツジム」を開いたのは1987年のこと。なぜボクシングジムという名前にしなかったかというと、ボクシングの選手を育てるだけじゃなくて、「老いも若きも」をキャッチフレーズに女性や中高年者を積極的に受け入れたかったから。実際に、一時は総勢200名ほどの練習生のうち女性が50〜60人ほどにもなりました。もちろん現在もたくさんの女性が汗を流しています。
  ジムを開いた理由のひとつに、街で見聞きする若者たちの言動があまりにも歯痒くて何とかしたかったというのがあったんです。「大きな声であいさつをする」とか「脱いだ靴をそろえる」とか、ごく当たり前のことができない若者が多すぎる。ボクシングという素晴らしいスポーツを通じて、そういう状況を少しでも変えていきたいですね。口うるさいオヤジだと思われてもかまわない。今の世の中、思ったことを口に出せない大人が多すぎますよ。子どもたちの可能性を広げてあげるのは大人の役目。そのことに、もっと多くの大人たちに気付いてもらいたいですね。
「練習は根性 試合は勇気」「結果の自信 結果までの自信」ジムの中には、輪島さん直筆の「標語」が。
PROFILE
輪島功一プロフィール 1943年、樺太生まれ。北海道士別で育つ。1968年1月に24歳で三迫ボクシングジムに入門。同年6月、プロデビュー。1971年には日本人で初めてボクシング重量級(ジュニア・ミドル級)世界タイトルを獲得し、6度にわたって防衛したほか、2度のリターンマッチでタイトル奪還に成功する。好敵手・柳済斗(韓国)との対戦はボクシングファンだけでなく、日本国中を熱狂させ、ボクシング史上に残る名勝負となった。通算成績は38戦31勝(25KO)6敗1分。引退後はだんご屋を経営。その後、1987年に「輪島功一スポーツジム」を開設し会長に。そのほか、テレビ出演や各種講演活動なども精力的に行っている。
発行/(財)生命保険文化センター
Interview & Writing/福田智生
Photo/吉村隆
Editor/宮澤省三(M-CRUISE)
Web Design/Ideal Design Inc.
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