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WEB.03
時代をたぐりよせる力のある作品を作り続けていきたい 映画作家 大林宣彦さん大林宣彦さん
大林宣彦さん世の映画少年を熱狂させた『HOUSE ハウス』や故郷・尾道を舞台にした“尾道三部作”など数々の名作を世に送り出している映画作家の大林宣彦さん。作品づくりに対するモチベーションは衰えることを知らず、今も日本の映像史を最先端で切り拓き続けている。そんな大林さんに、映画に対する思いや元気を保ち続ける秘訣についてお聞きした。
自宅の納戸には不思議なおもちゃがいっぱいだった
大林宣彦さん たくさんの船舶が出入りする瀬戸内海屈指の港町・尾道で、僕は代々続く医家の長男として生まれました。当時の医者は文化の最先端であり、人々から頼りにされる存在。そのため、港に入った船が何やら得体の知れないものを積んでいると、みんなが「先生! これは何ですか?」と聞きにくる。いつしか我が家の納戸には、そうやって持ち込まれた不思議なものが山積みになっていました。子どものころは、その納戸にもぐり込むのが本当に楽しみでしたね。極彩色のぶ厚いカラー写真集をめくって、世界中の景色を見たときの衝撃は今でも忘れられません。僕にとって自宅の納戸は、遊び場であると同時に、世の中のことを知るための学びの場でもあったような気がします。
 映画を撮るようになったのも、納戸で蒸気機関車のおもちゃを見つけたことがきっかけなんですよ。これを見つけたときは本当にうれしかったなあ。尾道の町を走るでっかい蒸気機関車は僕にとって世界の王様であり、あこがれでしたから。ところがこの蒸気機関車のおもちゃ、煙突が横を向いていたんです。あとからわかったことですが、それはレンズの筒だった。で、石炭を入れるお釜もあるんですが、それは電球を入れるランプハウスだった。もちろん、レールもあります。フィルムを通すゲートですね。さらにハンドルもあって、回すとガタコンガタコンと音がする。どう見たって蒸気機関車なんですよ。
 それで、そばに置いてあった小さなブリキの箱を開けてみると石炭の臭いがする。正体はセルロイドのフィルムです。よく見ると絵が描いてあるんですが、それを切り刻んでお釜に入れて、庭で煙突のレンズを立てて太陽に当てると、当たり前の話ですが燃えますよね。それを見て、シュッシュポッポと遊んでいました(笑)。
蒸気機関車のおもちゃが教えてくれた活動写真の魅力
大林宣彦さん そのうちに、どうやらこれは蒸気機関車とはちょっと違うみたいだぞと思い始めるわけです。入っていた箱の中にあった説明書をよく見ると、お釜に電球を入れて、レールの上に「石炭(フィルム)」を走らせて、電気の光を付けると煙突から光りが出て壁に絵が映るらしい。で、シュッシュポッポっとハンドルを回すとその絵が動く。「なんだこりゃ!」って最初は驚きましたけど、映ったスクリーンが当時の汽車の窓と同じサイズだったので、「これは汽車の旅を楽しむおもちゃなんだ」と理解することにしました。
 それならと、切り刻んだいろんなフィルムの両脇の穴を母親に糸でつないでもらって走らせてみる。もともとバラバラのフィルムをつなぐわけですから、絵がポンポンと変わっていって、ときには違うマンガの主人公が僕の蒸気機関車の中でだけ共演したりもするわけです。これは面白いということで、手つかずのフィルムを探して、次々と切ってはつなぎ合わせて自分だけの物語を楽しんでいました。
 どんどん夢中になって、もっとフィルムがないかと探してみると、父親のカメラの中に入っていたフィルムを見つけたんです。当時はモノクロのネガフィルムで黒と白が逆ですから、顔を墨汁で黒く塗って、髪を白墨の粉で白くして、眉も白墨で描いて撮ってみた。それで映すと白黒が逆転して、ちゃんとした出演者になることに気付く。誰に教わったわけでもなく、蒸気機関車のおもちゃで遊んでいるうちに、編集やアニメーションの技術を学んでいたんですね。
 そんな僕を見て、父親が「宣彦は映画(当時は活動写真)が好きそうだから」と町の活動小屋に連れていってくれました。すると、大人が子どもと同じような顔でキャッキャと楽しんでいるじゃありませんか。しかも、当時はモノが不足している時代で「モノを大切に」ときつく言われて育ってきたのに、活動写真だけはフィルムを切ろうが何をしようが叱られない。それどころか「宣彦は面白いことを発明して遊ぶな」と褒められるものですから、「これで遊んでいれば生涯良い子でいけるぞ」と。それ以来、僕はずっと活動写真と遊んでいるんです。
コマーシャルはスポンサー付きの個人映画!?
大林宣彦さん 自主制作映画を発表し始めたのは、上京して大学に通い始めてからです。下宿先の家賃が2食付きで1カ月畳一畳1,000円だった時代に、フィルムはカラーが1本2,000円、モノクロが1本400円でしたから、かなり高価ですよね。当然、一気に使うことはできなくてちょっとずつ撮影していましたが、そうやって撮ったフィルムがたまってくると人に観せたくなる。でも、8ミリフィルムで撮影した自主制作映画を上映してくれる映画館なんてありません。そんなときに、絵描きの友人の展覧会を観に行ったんですが、「ここに真っ白いキャンバスをひとつ置いて、そこに8ミリの映像を映したら発表できるじゃないか」とピンときたんです。さっそく友人と2人でやってみたら、「画廊で映画をやってる」と大変な話題になったんですよ。映画業界からはもちろん無視されましたが、雑誌『美術手帖』などのジャーナリズムが「新しいフィルムアートの時代が来た」と記事にしてくれました。
 ちょうど同じころ、1964年に紀伊国屋ホールが開館したんですが、記念に何かイベントをやりたいと検討しているときに僕たちの話を聞きつけて、フィルムアートの展示会をやることになったんです。とはいえ、僕らはお金をかけずに貧乏な映画づくりをしていましたから1時間2時間の作品はなかなか作れない。そこで、「60秒フィルムフェスティバル」というものを企画しました。これも既存の映画業界からすればスキャンダルなことだったと思いますが、やはり大変な評判で、噂を聞いた広告代理店の方々が僕たちにCM制作を依頼してきたんですよ。
 その当時、コマーシャルというのはまだ地位が確立していなくて、名のある映画監督に頼んでも「俺はモノをつくる人間だ。モノを売る仕事はしない」と断られるのが当たり前。正直、僕も最初は断ろうと思っていました。でも、そのころの映画は赤が赤く出なかったり、緑がザラザラしていたりしていたので、コマーシャルできれいな色が出せるんなら、感性を育てるという意味でもやってみる価値はあるなと思いました。それに60秒、90秒の中で5秒くらい商品を入れれば、あとは自由に作れるんですから、コマーシャルといってもスポンサー付きの個人映画をやっていたようなものだったと思います。
大ヒット作『HOUSE ハウス』誕生の裏に隠されたドラマ
大林宣彦さん 30年前の日本映画は、ベストセラーかベストコミックかヒットソングか、あるいは有名俳優か。なにか既存の価値に頼らなければ映画になりませんでした。ある歌がヒットして、これを映画にしていたら2〜3カ月かかってしまい、完成したころには歌のヒットが終わっていて映画もこけた(笑)。そんなことが当たり前のように繰り返されていたんです。
 一方、コマーシャル業界は右肩上がりでした。時代の寵児のようなものだったと思います。そんな中、東宝のあるプロデューサーの方が「映画もCMのように注目を浴びるようにならないものか。大林さんが考える映画ってどのようなものですか」と言ってきたんですよ。それで提案したのが、当時13歳だった僕の娘のアイデアから原作を書いた『HOUSE』(1977年公開)。彼女がたまたま風呂上がりに鏡を見て、「鏡に映っている自分が自分を襲ったら怖いね」と言ったのがきっかけでした。それから「ピアノを弾いているときに鍵盤が噛みついたら怖い」などいろいろアイデアが出てきて、これは映画になるなと。
1982年に公開された『転校生』台本。監督によってセリフの修正や追加が多数書き込まれている  ただ、家が人を食べるなんて内容の映画、天下の東宝の監督は撮りませんよ。撮ろうとしても撮り方がわからない。そういう時代です。しかも、私が選んだのはコマーシャルで起用していた新人の役者ばかり。頼んだ音楽も、当時コマーシャルソングを作っていた小林亜星さんやゴダイゴ。その頃はまだ有名じゃなかったし、とにかく異例なことばかりでした。結局、監督も私がやるしかないということになって、日本の映画界で初めて、映画会社の社員ではない人間が商業映画の監督を務めることになったわけです。
 その当時の東宝の松岡社長(現会長)が、「大林はん、私、こんなに内容のないバカバカしいシナリオを読んだのは初めてです。でも私がわかってやろうとした映画は全部こけとります。だからどうか私がわからんままに、このバカバカしいシナリオを映画にしてもらえませんか」と言われたんです。さらに「今、棚ぼたと言いましてな。うちの監督たちも棚ぼたのように仕事を待っていますが、もうそんな映画はありません。大林さんを見てると、西においしい小豆があると聞けば西へ走り、東にいい甘味処があると聞けば東へ買いに出かける。そして自分で板やのこぎりを買ってきて棚を作り、その上にぼた餅を載せて、自分の足で棚を蹴って落ちてきたぼた餅を受け取って食べて、誰よりも幸せそうな顔をして『うまい』と言う人や。そういう人がお作りになる映画を私は観てみたい」とも言ってくれました。
 完成した当初は「こんなものは映画じゃない」と血相を変える人も大勢いました。でも、いざ封を切ってみれば長蛇の列。その多くが15歳以下の少年少女たちだったんですけれど、映画館のロビーに人があふれて売り上げの新記録が続出したほどです。最初は1本限りで商業映画はやめるつもりでした。でも、あまりにも大ヒットしたため、やめるわけにいかなくなってしまって、結局30年経ってしまいました(笑)。
寝不足を感じないのは眠るより楽しいことがあるから
『転校生』撮影スタッフと。右から2人目が大林監督 クランクインすると、1日に1時間も眠らない生活が続いたりするんですけれど、つらいと思ったことはありません。僕の場合、仕事といっても楽しく遊んでいるのと同じようなものですから。逆に、「寝なさい」と言われても「なんで寝なくちゃいけないんだ」というくらい、寝ている時間がもったいなく感じます。変な話ですが、1日8時間寝るのが健康的な生活だとすると、90歳まで生きたら30年間は眠っていることになるでしょう。30年間あったら30本映画が作れますよ。どう考えたってもったいない!
 ただ、生きていくためには多少は睡眠という休暇も必要ですからね。そのために2〜3時間割くのは仕方ないと諦めています(笑)。睡眠そのものは深いですよ。「よし、何時まで寝よう!」という感じで集中して眠りますから。そして「しまった!」「損した!」と思いながら目覚めます(笑)。これはきっと、眠るよりも楽しいことをやっているからでしょうね。
 次はどんな作品か…。これからのことはまだわかりません。新聞記者さんに「今年の9月にどんな記事を書いているかわかりますか」と聞いてもわからないのと同じですよ。今を一所懸命に生きて、過去から学べるものは学んで、明日はどんな日が来てくれるかと考えるうちに、その時、何をやるかが自然と出てくるんだと思います。先に映画を作ろうと思うと、それにとらわれてしまい、時代と無関係のものができてしまう。映画というのは時代を映す鏡であるし、また時代をたぐりよせる力のあるものですから、元気で生きている限り、そういう作品を作り続けていきたいですね。
映画作家 大林宣彦さん
1938年、広島県尾道市生まれ。3歳のときに自宅で出合った活動写真機で個人映画の制作を始める。1964年頃からテレビCMの制作に携わり、2,000本以上もの作品を生み出す。1977年に公開された『HOUSEハウス』で劇場映画に進出。以後、『ねらわれた学園』(1981年)、『青春デンデケデケデケ』(1992年)、『理由』(2004年)をはじめとする数多くの作品をコンスタントに発表。中でも故郷で撮影された『転校生』(1982年)、『時をかける少女』 (1983年)、『さびしんぼう』(1985年)は"尾道三部作"と称され、多くの映画ファンたちに今なお愛され続けている。2007年夏には、『22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語』と『転校生 さよならあなた』の劇場公開が控える。第21回日本文芸大賞・特別賞を受賞した『日日世は好日』など著書も多数発表。2004年春の紫綬褒章受章。
大林宣彦ブログ「雨撮晴記」 はこちら
『22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語』公式ホームページはこちら
*『なごり雪』に続く大林宣彦・大分三部作の第二弾。伊勢正三「22才の別れ」をモチーフに描く、母娘二代にわたる切ない恋の物語。
配給:角川映画。東京公開:8月4日
『転校生 さよならあなた』 公式ホームページはこちら
*"尾道三部作"の『転校生』が舞台を長野に変えて繰り広げられる青春ファンタジー。
配給:角川映画 公開:6月23日
発行/(財)生命保険文化センター Interview & Writing/福田智生 Photo/吉村隆 Editor/宮澤省三(M-CRUISE) Web Design/Ideal Design Inc.