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あきらめずに挑戦すればどんなに高い山だって登れる
冒険家・プロスキーヤー 三浦雄一郎さん冒険家・プロスキーヤー 三浦雄一郎さん
日本が世界に誇るプロスキーヤー・三浦雄一郎さんは、1985年に世界7大陸最高峰からのスキー滑降を完全達成、2003年には世界最高年齢でのエベレスト登頂に成功と、これまでに数々の命をかけた冒険に挑戦し、成功をおさめてきた。そんな三浦さんは今、75歳でのエベレスト再登頂に向けて準備を進めているという。その飽くなき挑戦心とエネルギーの素についてお聞きした。
70歳でエベレストへ。その決断の裏には家族の存在があった
三浦雄一郎さん 私は53歳(1985年)で世界7大陸の最高峰からスキー滑降を成し遂げました。ときには失敗もしましたし、命の危険にさらされたことも1度や2度ではありません。そんな風に若いころからずっと過酷な経験や厳しいトレーニングを積み重ねてきたこともあって、60歳を過ぎたらのんびり老後を楽しもうと思っていたんです。海外旅行に行ったり、ゴルフをしたりね。
 実際、60代前半の私はすっかりリタイヤ気分で飲み放題、食べ放題の生活を送っていました。トレーニングをやらなくなったのに食べる量、飲む量が以前と変わらないんですから当然太りますよね。血圧も血糖値も高くて、あらゆる生活習慣病を抱えていたといっても過言ではありません。
2003年エベレスト登頂。クレバスを渡る  そんな私を尻目に、同じスキーヤーである父親の敬三は90代に入ってからも現役で、「99歳になったら白寿の記念にモンブランの氷河を滑るんだ(※2003年に達成)」と元気いっぱい。息子の豪太も30代半ばでモーグル競技の第一線に復帰して、若い選手たちを相手にワールドカップを戦っていました。本人たちにそんなつもりはなかったかもしれませんが、挑戦することで多くの人に夢を与えていたんです。
 彼らの姿を見て、自分だけが取り残されている気持ちがしました。「いつまでもこんな生活を送っていていいのか?」「自分にも何かできるんじゃないのか」。私自身も父や息子の活動に勇気づけられ、夢を与えられた一人だったんです。
 どうすれば2人に追いつき、追い越すことができるのか。私は「エベレストのてっぺんに立つ」という目標を掲げました。エベレストは若いころからずっと大切に思っていた存在ですし、38歳(1970年)でスキー滑降に成功したときには頂上まで登っていなかったので、「いつかてっぺんへ」という思いがあったんです。
 ちょうどそのころ、NHKの「世界我が心の旅」という番組でエベレストのベースキャンプへ行く機会がありました。ところが、いざ登ってみると3000mで高山病になり、5000mのベースキャンプにたどり着いたときにはふらふら。頂上へアタックする若い登山家たちをみて、「自分にはもう無理だ」とあきらめかけました。でも、帰国してからもう一度考えたときに、難しい挑戦だからこそおもしろいと思ったんですよ。今や生活習慣病を抱えるこの身で、エベレストの頂上にたどり着くことができたら、それはすごいことではないかと。このとき私は65歳。年齢的なことを考えると、ゼロからどころかマイナスからのスタートだったことは間違いありません。
練習が好きな人はいない。嫌いにならないような工夫が必要
2003年。夕焼けに染まるエベレスト トレーニングは歩くことを主体にしました。普段から登山靴を履いて、足首にはおもりをつけて歩くようにしたんです。1年目は1キロ、2年目は2キロと徐々におもりを重くしていく。同時に、歩くときは背中に重い荷物を背負うんです。最終的には片足に10キロずつのおもりをつけ、25キロの荷物を背負って歩けるようになることを目標にしていました。
 こうすると、自宅から代々木公園を抜けて新宿まで散歩して、登山専門店や書店、スーパーを回って帰ってくるだけで、数千メートル級の山を登っているのに近い負荷をかけることができます。専門店では若い登山家の話を聞いたり、新製品の情報を入手したりもできます。ストイックにトレーニングに打ち込むというよりは、日常生活の中に組み込んでいく感じですね。
 だから、腹筋や腕立て伏せ、スクワットなどのトレーニングはほとんどやっていません。早朝からランニング、といったこともやりませんでした。だって、楽しくありませんから。そもそも、厳しい練習が好きな人なんていないんですよ。私だって同じ。だから、なにか新しいことに挑戦するときは、途中で嫌にならないようにトレーニング方法を工夫することが大切だと思います。
 あとはとにかく現場ですね。ブランクがあったので最初はハイキング程度の登山から始めて、富士山、ヒマラヤの5000、6000、7000メートルの山と徐々にレベルを上げていき、2002年には世界第6位のチョー・オユー(8201m)に挑戦しました。登ること自体は、やっぱり楽しかったですよ。ひとつクリアするたびに、エベレストに近づいている手応えを感じることができましたから。
  そして、2003年の5月、ついにエベレストの頂上へとたどり着くわけです。頂上へ登る一歩一歩が人類の限界を歩いているという感動でいっぱいでした。もちろん、苦しかったですし、死にそうな目にも遭いましたが、本当に挑戦して良かった。素直にそう思います。
1970年エベレスト、サウスコル8000m世界最高地点スキー滑降の際に使ったヘルメット、酸素ボンベ。そして転倒した際に残ったスキー板。片方は行方不明
母の言葉に救われた少年時代。人生には逆転のチャンスが必ずある!
息子・豪太とエベレストにて 若い頃はスキーヤーとしてオリンピックに出たいという気持ちを持っていました。でも、その夢が叶うことはなかった。当時は傷ついたり、落ち込んだりもしましたけれど、今にして思うとオリンピックで金メダルを取ること以上のこと、誰も成し遂げられなかったことをやってこれた。人生には、必ず逆転のチャンスがあるんだと思います。
  少年時代を振り返ってみても、私は結核を患うなど病気がちでしたし、中学校で落第も経験しているんです。ショックのあまり、今でいう引きこもり状態になったこともあります。そんなとき、母親が「なにをクヨクヨしているの。おじいちゃんなんか、1回選挙に落ちたら4年間もがまんしなくちゃいけないのよ」と励ましてくれた。祖父は国会議員だったんですが、「へえ、あんなに偉いおじいちゃんが」と驚きました。それからは冬は山へ、夏は海へと、自然の遊びに熱中するようになって、身体も丈夫になりましたし、自分に自信が持てるようになりました。
1964年、イタリアで行われたキロメーターランセで日本人として初めて参加時速172.084の世界新記録樹立  大学受験に向けて勉強しているときも、「何をつまんなそうに勉強しているの。大学なんか行かなくても、歌手でも俳優でもなりたいものになればいい」と母が言うわけです。でも自分は音痴だから歌手は無理だし、足が短いから俳優にもなれない。やっぱり勉強するしかないなと(笑)。あのときガミガミ言われていたら勉強する気にはなれなかったかもしれません。
  とにかく、あきらめないこと。そうすればどんなに高い山だって登れるはず。そのことを私は身をもって体験してきました。昨年の暮れ(2006年12月)には心臓手術をしました。もう体はボロボロですが、私はこれからも挑戦を続けていくつもりです。現在の目標は、75歳(2008年)で再びエベレストの頂上にチャレンジすること。実は70歳で頂上にたどり着いたとき、ものすごく天気が悪かったんですよ。景色を楽しめなかった。もしかしたら「もう一度挑戦しなさい」という神様からのメッセージだったのかもしれません。もちろん、自分の限界を見てみたいという気持ちもあります。この好奇心がある限り、私はいつまでも挑戦をやめないと思います。家族の存在と自分への好奇心。これが私のパワーの素です。
1966年、富士山直滑降。スキー界で初のパラシュートブレーキを使用写真左から)後列:寛(弟)、雄一郎(本人)、雄大(長男)、敬三(父)、里緒(孫)、豪太(次男)、朋子(妻)。前列;恵美里(長女)、雄輝(孫)、里枝(長男の嫁)
三浦雄一郎さん プロフィール
1932年青森県生まれ。母校である北海道大学獣医学部に助手として勤務後、1960年代からプロスキーヤーとして活躍。1964年には日本人として初めて伊・キロメーターランセ(スピードスキー)に出場し、172.084km/hの世界記録(当時)を樹立。1970年にはエベレストのサウスコル8000m世界最高地点からのスキー滑降(ギネスブック掲載)を成し遂げ、その記録映画「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」はアカデミー賞を受賞した。1985年、世界7大陸最高峰からのスキー滑降を達成。2003年には70歳にして次男とともにエベレストに挑み、当時の世界最高年齢登頂記録を樹立している。著書、写真、講演多数。
発行/(財)生命保険文化センター Interview & Writing/福田智生 Photo/吉村隆
Editor/宮澤省三(M-CRUISE) Web Design/Ideal Design Inc.