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第2回 普通という平等観愛知みずほ大学 伊藤 由美子[いとうゆみこ]

若者は、よく「普通」という言葉を使う。一人ひとりに向き合って話を聴くと、それなりの考えをもって話すことができるのだが、集団の中では何の発言もしない。無理に発言を求めると、「別に」、「面倒くさい」、「かったるい」という言葉が必ず聞こえてくる。

その後には「なんで、俺が答えなければならないんですか。」「別に何にもないし・・・。」と続く。
このように、現代の若者が集団の中に息を潜めるのは、なぜなのだろうか。そしてその理由の背景は何なのか、ということを考えてみたい。なぜなら、その背景こそが日本人的な平等観を形成する基底であり、今日的な諸問題(例えば、尖閣列島などの領土問題など)に対する日本としての姿勢の原点と考えるからである。

まず、はじめ「普通」とはどのような状態を指しているのか。
一般的には、「積極性がないこと」と捉えられることが多いのではないか。若者もそのように思っているようだが、集団の中に埋没することが「普通」なのだろうか。
筆者としては、集団と同化することが「普通」であることだと捉えたい。とするならば、「個」はどのように存在するのだろうか。あるいは「個」の存在は考えないのだろうか。若者の様々な場面を考えると、どうやら若者は私たちの思い描く「個=自立する個」とは異なる捉え方をしているように思われる。つまり「集団=個」(併存)という考え方が存在するようなのだ。だからこそ若者は、「普通」という言葉を使う。突出しない普通、目立たない普通こそが集団の平等性あるいは均一性を担保する条件なのかもしれない。つまり集団の平等性を維持するためには、集団世界に同化し続けることが必要なのである。そこには、私たちの望む「個の自立」という考え方は見当たらないようだ。

では、なぜ今時の若者に「集団=個」という考えが生まれたのかを考えてみたい。
筆者は、その答えを教育の変遷に求めたい。現在の産業社会を動かしている世代が受けた教育は、受験戦争に代表されるように競争を勝ち抜くための教育であった。努力すれば報われるという構図が見える形で存在していたからこそ、目標を掲げることができた世代でもあった。しかし、多くの若者は「結果の平等」を求める教育を受けてきた。「個」が突出しないように配慮する教育でもあったのではないだろうか。したがって、彼らは常にバランスをとることを第一に考えるようになってきた。しかし、「個」の存在を否定することはできない。むしろ自らの「個」を安心して主張できる集団を望んだのだ。そのためには、集団に同化する形で「個」を保つ必要があった。「自立する個」は、「個」だけが自立するのではなく、集団が他から自立する、という構図で結果的に「個」の自立を保つことに成功したのではないだろうか。そのように考えると、集団と「個」を区別することなく、両方を包摂している若者の「普通」が見えてくる。

では、そのような「普通」は現代の若者に特有の考え方だろうか。
いいえ、そうではないですよね。政治の世界から企業組織、大学に至るまで、蔓延しているようである。
キーワードは、「落としどころ」であろうか。
「普通」であるためには、集団におけるバランス感覚が必要。集団は、「個」も包摂していることから、安定のためには「個」に対するなんらかの配慮が必要となる。集団全体のバランスを維持するためには、さまざまな「個」を突出させないような「落としどころ」が重要なのである。私たち日本人が持つ「落としどころ」観とは、日本における伝統思想の中に求める答えがあるのではないだろうか。

参考文献:中日新聞(2010)、梅原猛「人類哲学についての覚書(1)」10月25日夕刊
苅谷 剛彦(2009)、『教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか』 中公新書

伊藤 由美子[いとうゆみこ]さん

伊藤 由美子
[いとうゆみこ]

愛知みずほ大学 人間科学部専任講師

学校卒業後幾つかの企業転職を重ね、1997年10月愛知みずほ大学就職指導室へ入職、学生支援を続けながら、後2001年4月より人間科学部専任講師として講義を行なっている。

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