WEB.06
世界は音楽でつながることができる「尊重」と「共生」のためのマリンバ
マリンバ奏者 三村奈々恵さん
三村奈々恵さん若手マリンバ奏者の第一人者。音楽のジャンルを超えた新しいマリンバの魅力を伝え、国際的な音楽親善活動でも知られる三村奈々恵さん。その輝かしい業績の裏には、一度はマリンバを止めようと思ったこともあるほどの苦悩の日々もあった。音楽を通して世界の人々とコミュニケーションする、その思いを聞いた。
10歳でプロ志向を自覚。特急列車でレッスンに通う音楽少女時代
 マリンバを始めたのは3歳の頃。当時は長野県の茅野市というところに住んでいました。学齢に達する前の娘の情操教育という感じで、音大出身の母が軽い気持ちで私に勧めたのです。小学校に入るとマリンバ教室は終わりのはずだったのですが、私が「もっと続けたい」と言い張ったそうです。それで、隣町の教室に一人でバスに乗って通っていました。母親に言わせれば、その頃から私はだんだん音楽にのめり込み母の学生時代の譜面なんか引っ張り出して、弾いていたようです。
 「この子に才能があるのか」って親なら思いますよね。それで10歳の頃一度、東京の先生に見てもらいました。そのときの最初のレッスンのことはよく覚えています。それまでのお遊びじゃない。弾き方をちょっと変えるだけで音が変わる、マリンバの奥深い魅力にあらためて気づきました。レッスンを終えて、とても清々しい気持ちになりました。先生からは「将来を期待してもいいのでは、ないでしょうか」という助言を頂いて、マリンバを続けることができたのです。
 それからは月に2回、特急「あずさ」に乗って東京へレッスンに通うようになりました。高校から音楽高校に行かせたほうがいいという勧めで、小学校4年生から中学の3年生までは、そのための受験勉強も続けていました。
 10歳の頃「20歳の自分へ」という作文を書いたことがあります。「日本の音楽大学を卒業したあなたは、ドイツかアメリカに留学して、マリンバのプロを目指しているでしょう」なんてね(笑)。実際、その通り、音楽高校、音楽大学とずっと打楽器科に属して、マリンバに打ち込む日々が続きます。
 目標を定めると一途になって、他のものが見えなくなるところが私にはあるみたい。将来プロになるための、学校は通過点の一つに過ぎないと思っていました。ライバル意識はありましたが、そこではいつも挫けそうになる自分がライバルでした。でも、練習が辛いと思ったことは一度もありません。毎日やるのが当たり前。やるたびに上達するのが、楽しかったんです。
華やかなプロデビューのあと、目標を喪失
三村奈々恵さん  留学先にボストン音楽院を選んだのは修士課程にマリンバ科がある唯一の大学だったからです。日本にいたときは両親や先生からも、実は誉められたことってなかったんです。それが逆に発奮材料になっていたんですが……。ところがボストンではいきなり初日から誉められた。「うまいね、すごいね」って。コンクールで優勝したときなど、それこそ学校中がお祝いをしてくれました。このあたりは、日本の教育とは違いますね。褒められたことが嬉しくて、また、その事が自信に繋がっていきました。
  1999年には、国際的な若手アーティストの登竜門とされるニューヨークのコンペティションで最高賞を獲得しました。その後のカーネギーホールでのデビュー・リサイタル、そして2000年のデビュー・アルバムまで、とんとん拍子に話が進み、プロへの道が開かれていきました。
 10歳でプロになろうと決意してから15年、無我夢中で頑張って、ついに25歳で夢を叶えました。私はプロになれば、自分がすごく幸せになれると思い込んでいたのです。けれども、デビュー直後の忙しさが一段落した2年目くらいから、なぜか日々の生活が充実していない自分に気づくようになりました。充実感や幸せ感より、マリンビストとしての前例がなかったので、不安が大きくなっていたのです。
 マリンバは、自分が誰かに認められるためにやっているのか、それとも人に喜んでもらうためにやっているのか。それがわからなくなってしまいました。プロになったとたん、目的意識を喪ってしまったんですね。ほんとうはプロデビューはゴールではなく、一つのスタートにすぎないのに……。
音楽の神様に土下座して、自分の未熟さを詫びた
三村奈々恵さん その後、演奏旅行をしたり、アルバムを出したりしながらも、しばらくの間、私は悶々としていました。そんななかでいくつか私の視野を広げさせてくれることがありました。たとえば、2000年のグアテマラ演奏旅行は衝撃的でした。発展途上国へは初めての旅行で、人々の生活の苛酷さというものに初めて気づいたし、マヤ遺跡やマリンバの製作所を訪れるなど見分を広げました。移動の機内で改めて気付いたことは、地球に実は国境なんてないんだ、というようなことも考えました。
  「セプテンバー・イレブン」も私にとっては大きな衝撃となりました。私はその頃、バークリー音楽大学で教壇に立っていたんですが、学校はもとより街中が騒然となったことを覚えています。こんなことがあるんだ、一瞬にして大きな建物や大勢の人が、なくなってしまうことがあるんだって。
  私はそれまでずっと音楽という居心地のよい井戸の中に棲む蛙だったんです。その壁が次第に壊れていく。そのときようやく私は、自分の視野の狭さ、未熟さに気づいたのです。音楽はもちろんのこと、もっと世界のこと、人間や、政治、経済いろんなことを知らなければならない、と思うようになりました。
  あるとき、ボストンのアパートに帰って、音楽の神様に土下座して謝りました。「私はこれまで未熟で、傲慢でした」と。大きなコンクールで優勝し、若くしてバークリーで教える立場に立っている自分。でも、そんな賞や肩書にとらわれることなく、身一つであらためて音楽に真摯に向き合うことを誓いました。それからは、これまでお世話になった両親や先生や友だちに必死で感謝の手紙を書きました。母はびっくりしていましたね。これまで「ありがとう」なんて絶対に言わない子だったのに。どうしちゃったのって(笑)。
吸収したさまざまな音楽のジャンルをアルバムに表現
マリンバを演奏する三村さん 音楽は国境を越える、とよく言いますけれど、そういう経験が私にもあります。たとえば、2005年のホンジュラス、パナマ、グアテマラ、メキシコなど中米への演奏旅行。英語が通じない。カタコトのスペイン語での会話。でも、実際演奏が始まってみると、わかりあえる。聴衆とも心が通じる。ああ、マリンバをやっていてよかったなと思えた瞬間でした。 子どものときからボストン音楽院のころまでは、クラシックの現代曲を演奏するのがメインでした。ただ、バークリーにはジャズやポップス、民俗音楽のエキスパートがたくさんいて、そんな神様のような人たちから大きな刺激を得ました。
  自分のマリンバのテクニックについても、意識するようになったのは、バークリーで教えるようになってからですね。学生たちの前で演奏して見せても、それを言葉で伝えることができなかったんです。それで、自分の指や手首の動きを綿密に観察するようになりました。
  私が日本で勉強していた頃は、マリンバ人口は少なく、国立音大でもマリンバだけを専門にしている先生はいらっしゃいませんでした。他の演奏家の演奏もほとんど聴くことがなかったし、そういう意味ではマリンバに特化した師匠というのは、私の場合はいないんですね。テクニックはいわば独学です。けれども、その頃から学校の先生には大きなコンサートへのチャレンジを後押ししていただいて、現在に至る道を開いてくださったわけで、先生の導きに深く感謝しています。
  これらの経験は私のアルバムの変遷にも現れています。デビューアルバムは現代クラシックベース。2枚目はポップスにチャレンジしています。3枚目ではオリジナル曲を収録し、自分の表現したい音楽を、ある程度ですけれどやっと形にできたかなという感じ。そこではアフリカやモンゴル、インドネシアなどの民俗楽器も取り入れ、曲のジャンルもさまざま。これまで15〜16か国で演奏していますが、そこで感じたさまざまなことを表現しています。皆さんにはこれまでのマリンバのイメージを変えるものになっているとは思います。
  「ああ、マリンバってこんな深みのある音が出せるんですね」という感想をよくいただきます。ただ、私にとっては、マリンバはアンユージュアル(珍しい)なものではなく、もう身体の一部。自分が出したい音をめざして演奏しているのです。
異なるものを結びつける「音楽外交」って素晴らしい
コンサートでの三村さん(草月ホール) さまざまなジャンルの演奏家と共演したり、さまざまな音楽のルーツを取り込んだアルバムを制作しながら、私がいま強く感じるのは「尊重」と「共生」という二つの言葉です。音楽では、たとえばジャズとクラシックの演奏家が共演しても、けっして争うことはありません。互いの音楽を尊重しながら、その融合が新しい音楽を生む。コンサート会場での聴衆とプレイヤーの一体感というのも、異なるものが融合する瞬間ですね。そういう瞬間を大切にしていきたいんです。
  昔の私は考え方の違いを受け入れることがなかなかできませんでしたが、ずいぶん変わりました。最近もコロンビアの音楽集団、Grupo Bahia(グルーポ・バイイヤ)と共演する機会がありました。彼らは音楽授業もなく、譜面が読めないんですが、才能が溢れんばかりで、生命力の塊のような音楽を生み出していて、一緒に演奏できてほんとうに嬉しかったし、楽しかった。音楽って絶対人を傷つけないし、攻撃しない。今年は日本・コロンビア修好百周年記念行事に参加しました。そこで出会ったコロンビアのアルバロ・ウリベ大統領のお話にはとても感銘を受けました。ウリベ大統領はメディシン市の市長や州知事の時代に、「子どもには武器ではなく音楽を」というスローガンを掲げ、麻薬取引やゲリラとの闘いで荒れ果てた街を音楽の力で再興したことのある大統領です。
  音楽にはそういう力さえあるんだということ、それを私もマリンバで伝えていきたいと思います。
三村奈々恵さん プロフィール
三村奈々恵さん 国立音楽大学打楽器専攻を首席卒業後、渡米。ボストン音楽院にて修士号を取得。ボストン音楽院生の頃より、バークリー音楽院で講師を務める。 学生時代より数々の国際コンクールで優勝を重ね、その卓越したテクニックと詩情豊かでダイナミックなサウンドが評価され、史上3人目の「アロージ賞」(スイス)を受賞。また、国際的若手アーティストの登竜門とされるニューヨークの「コンサート・アーティスト・ギルド・コンペティション」では、ソロで最高賞を獲得し、マリンバ・ソロでは初の受賞者となった。
2000年のデビュー・リサイタルはニューヨークの「カーネギーホール」。演奏活動は、アメリカを中心にマリンバが国家象徴に定められたグァテマラ(中米)から招待されるほか、コスタリカ政府主催の国際芸術祭に出演するなど、世界10数カ国以上で公演を行い、音楽を通じての国際親善を積極的に推進している。
国内では、アルバム「マリンバ・スピリチュアル」、「ユニバース」、「Prana」(プラーナ)をリリース。FMヨコハマ「CLASSY MUSEUM」パーソナリティーを務める。

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NANAE MIMURA
発行/(財)生命保険文化センター Writer/広重隆樹 Photo/福里幸夫 Editor/宮澤省三(M-CRUISE) Web Design/Ideal Design Inc.
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