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第7回 「絵を読む力」
作家・医学博士 米山公啓エッセイ
「絵を大きな声で読む」by yoneyama

 私は昔から絵を描くのが好きで、医学部へ行っているとき、結構本気で絵を習っていた。父親がずっと油絵を描いていたので、その影響もあったかもしれないが、小中高といつも図工や美術の時間が大好きだった。
  もちろん、先生に褒められたということもあったのだろうが、絵を集中して描いているときは、なんとも幸福感があった。
  ただデッサン力がないので、画家にはなれないと思い、絵を一生の仕事にしていくことはあきらめた。というほど悩んだわけでもないが、そのあともことあるごとに、イラストを描いていた。
  医学部の授業中、教授たちの似顔絵を描いて、それを教室で回したりしていた。結構、受けがよかったのだ。
  だから、絵を描くことが好きなのは間違いない。
  クルーズの取材で世界中の客船に乗りながら、船から日本にFAXを送り、友人にそれに色を付けてもらい、WEBで日記のように配信していた。
  また週刊誌の連載では、文章だけでなくイラストも描いていた。
  で、この連載でもそうだが、マウスを使って妙な線でイラストを描いているというわけだ。
  もちろん絵を描くということは、絵そのものが好きでなければ描けないものだ。 
  医学生のころ、1、2年生は時間があったので、自分なりに美術史を勉強していた。
  美術の世界をいろいろ知ってくると、絵の価値というものを改めて考えてしまう。
  もともと絵には絶対的な価値はない。しかし、そこに何らかの価値を見いだすと、とんでもない値段になってしまう。
  いまのように印象派の絵が、億単位の評価になってきたのは、それほど古くはないが、美術業界が作り上げてきた価値観とも言えるだろう。
  日本では美術館に平日、ほとんど人はいない。しかし、ゴッホ、ルノアール、セザンヌ展となると、大勢の人が押しかけてくる。
  それはいったい何を見に行くのであろうか。名所旧跡観光とさほど変わりがないように思う。
  既存の価値観を自分も知っていなければいけない、そんな感覚なのだろうか。
  美術館の絵を前にして、本当に感動するのは難しいものだ。
  そこには自分の価値観がなければいけないからだ。この絵が好きだとか、自分なりに絵を評価できなければいけない。
  しかし、多くの絵はすでに美術評論家あるいは歴史的に評価が決まっている。私たちはその知識を持って、絵画を見るので、本当にその絵がいい絵なのか、疑うこともできない。

 生前ゴッホの絵は2枚しか売れなかったと、よく言われる。そのゴッホがなぜ死んでから絵の評価が高まったのか、知りたくて、詳しく調べたことがあった。
  ゴッホの絵は、弟のテオの奥さんが、ゴッホの手紙と絵をセットにして展覧会を行って、そのあたりからゴッホの生き方とその絵も評価されるようになっていく。
  ゴッホの絵が世界的に有名になる前に、すでにその評価をしている人は一人いたようだ。
  というより、ゴッホは絶対的な絵画の技術を持っていたわけではないから、その絵の評価は別な意味が必要だったということだろう。つまり、あとから生き方の純粋さのようなものが同時評価され、絵の価値も上がっていったようだ。
  ところが、私たちは、ゴッホの絵はすばらしいと思わなければいけないように思ってしまう。みんながすばらしいという絵に対して、その評価を信じないことは難しい。
  自分だけつまらない絵だというのは、非常に勇気ある行動になってしまう。
  しかし、今の時代、そういった独自の価値観を持つことが重要なことなのではないだろうか。
  既存の価値、権威に対して動じることなく、自分なりの評価を下せることが、正しい将来を見極めることにつながるはずだ。
  私たちの価値観は実はすでに知識や情報として頭の中に組み込まれてしまっていることが多い。
  だからそれが本来の自分の価値観なのか、あるいは人から聞いたものか、わからなくなっているのだ。
  情報が過剰で、インターネット、雑誌、テレビとあらゆる手段で常に情報が流れ込んでくると、いつのまにか、世間での噂や評価が、自分の価値観となってしまい、それに気が付けないでいることが多い。
  有名なこと、さらにテレビにたくさん出ていることで、その人の言うことが正しいように思ってしまう。
  ますます、自分の価値を持てない状況だとも言えるだろう。
  とくに絵画などは、企画展では、すでに価値の確立された画家の絵であるから、それをいくら見ても、知識の確認に過ぎない。
  美術館へ行くなら、むしろ平日人のいない時間に、常設してある絵の中から、自分が面白いとかいい絵だと感じる絵を探してみるべきだろう。

「ゴッホと並んでみる」

 油絵という手法は印象派からピカソあたりでピークを迎えたように思う。芸術はその時代によって表現方法が変化してくるとも言えるだろう。
  写真ができる前は、記録に残すという意味で、絵画は意味があった。しかし、写真ができてからは、そっくりに描くことだけでは意味がなくなってしまい、その表現方法を模索した結果が印象派とも言える。
  ただそれ以降は、画期的な絵画はない。
  日本の油絵の公募展をみればわかるが、すでに伝統工芸の域に達して、指導する先生の手法をまねているだけになってしまいがちだ。
  芸術というものは、表現に新しさがなければならない。
  そうなってくると、油絵は、クラシック音楽と同じで、新しい演奏はあるにしても、曲そのものは1900年以前で止まっているとも言える。
  私は油絵も1900年初頭で、終わったように思えてならない。つまりクラシック音楽と同じように、古典を楽しむ芸術なのかもしれない。
  美術鑑賞の多くは、その古典的な絵画を眺めるということで、美術的な意味があるのかもしれない。
  となれば、有名な絵画という価値観を学ぶということなのかもしれない。
  自分なりの価値観など絵画には必要がなくなっていると考えられる。
  今後、どんな表現方法が出てくるのか期待もしたいが、新しい表現方法に対して、それを見抜くだけの価値観を持たねばならないし、見抜ける環境も必要になってくる。
  今のように価値観を押しつけられたり、それを知識として知っているだけでは、なかなか独自の価値観を生み出すことは難しいだろう。
  絵を見るとはそんな意味が含まれているのだ。だから絵を見るというより、絵を読んで、その先にあるものを察知しなければならない。絵の鑑賞は本来、それほど面白くスリリングなものなのだ。

プロフィール
米山公啓(よねやま きみひろ) 氏名:米山公啓(よねやま きみひろ)
生年月日:1952年5月10日 出身:山梨県甲府市生まれ、 愛知県岡崎市・東京都福生市育ち 身長・体重:180cm・87kg 職業:作家、医師(医学博士)。
【専門】神経内科。脳卒中、認知症、老人医療、健康論、医療経済。
超音波を使った脳血流量の測定や、血圧変動からみた自律神経機能の評価などを研究。老人医療・痴呆問題にも取り組む。外勤先の天本病院(東京都多摩市)にて在宅医療にも10年以上参加。健康管理部において、ニコチンガムを使った禁煙教室を実施した。聖マリアンナ医科大学第2内科助教授を1998年2月に退職。本格的な著作活動を開始。
【執筆活動】1990年に看護雑誌(エキスパートナース)にエッセイの連載を始めたのをきっかけに、現在では医学ミステリー、小説、エッセイ、医療実用書などを手がける。 年間10冊以上のペースで書き続けている。
代表作:『医者の半熟卵』、『医者の個人生活366日』、『午前3時の医者ものがたり』(集英社文庫。『もの忘れを防ぐ28の方法』、『脳が若返る30の方法』(中経出版)などが10万部を超えるベストセラーに。また『健康という病』(集英社新書)も5万部を超える。
「米山公啓のホームページ」 http://yoneyone.com

新刊:『脳がどんどん若返る生活習慣』(ソフトバンク新書)

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