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「ウイルスの脅威から地球を守る」パンデミック(世界的大流行)を起こさないための国としての対策を ウイルス学者(東京大学感染症国際研究センター長)河岡義裕さん
河岡義裕さん 鳥インフルエンザがいま世界各地で流行している。インドネシアではH5N1型(高病原性鳥インフルエンザ)と呼ばれる強毒の鳥インフルエンザウイルスに感染して37人目の死者が発生した(2006年6月5日)。2003年からの死者は全世界で128人。致死率は58%と高い。日本でも近年流行し、専門研究者はもとより、政府から一般人まで関心は高まっている。
  河岡義裕さんは、1999年に「リバース・ジェネティックス」という技術で、世界で初めてインフルエンザウイルスを人工的に作り出すことに成功した。従来よりも短期間でワクチン製造を可能にする手法の開発につながるものだ。弱毒性の鳥インフルエンザウイルスが少しのアミノ酸変化で強毒ウイルスに変化するという説を証明したのも河岡さんが最初だ。
  「ウイルスの脅威から地球を守る」という大義を背負った研究者だが、「最初からウイルス学者になるつもりはなく、大学を出たらふつうに製薬会社に就職しようと思っていた。ところが恩師たちに乗せられて」と、ウイルス研究への道はたまたまだったと述懐する。「知らないことがまだまだたくさんあり、それを解明するのは楽しい仕事」という河岡さん。彼の叡知を求める世界からの声は日増しに高まっており、仕事は多忙を極める。4月下旬、インドネシアでのウイルス対策アドバイスのために、成田空港へ向かう前の時間をいただいてお話を聞いた。
   
 
河岡義裕さん
迫りつつあるパンデミックの危機

 人間とインフルエンザウイルスとのつき合いは有史以前から続いています。20世紀以降だけでも、3度のパンデミック(世界的大流行)を引き起こしました。1918年から19年にかけてのスペイン風邪では世界中で2000万人が亡くなり、日本でも200万人以上が感染、うち38万人以上が死亡しました。2000万というのは当時の人口からいうと1%の死亡率。つまり100人に1人、家族も含めて周囲に知っている人のうち誰かは亡くなるという計算になります。
  もし今それが発生したら、どうなりますか。学校、会社、交通機関はストップし、社会機能が完全に麻痺します。いかに医療技術が当時と比べて発達しているとはいえ、100人に1人が亡くなるのでは、医療従事者の確保さえままならない。経済的ダメージも深刻で、株の暴落、さらには大恐慌さえ引き起こしかねません。
  幸い、1968年のホンコン風邪以降、パンデミックは発生していません。しかし、私たちインフルエンザ研究者の間では「新型インフルエンザウイルスによる、新たなパンデミックの危険が間近に迫っている」というのが共通認識です。そのための対策は焦眉の課題なのです。

 
 
   
 
 
河岡義裕さん
鳥インフルエンザは、人をも殺す

  ウイルスはもともと自然界に存在するものです。なかでもインフルエンザウイルスは、カモなどの水禽類の体内につねに存在しています。ただこれまでの鳥インフルエンザウイルスはカモの体内では弱毒で、宿主を殺すどころか病気も発症させないとされてきました。ところが2003年から世界で流行しているH5N1型はカモを殺し、ニワトリにも大量死をもたらしています。ウイルスに感染したニワトリの生肉を食べた動物園のトラが死んだという報告もあります。
  そもそも鳥インフルエンザウイルスが人を殺すという事実が確認されたのは比較的新しく、1997年ホンコンでの流行が最初です。私を含め世界のインフルエンザ研究者にとってはきわめてショッキングな報告でした。まさか鳥インフルが人に直接伝播し、人を殺すなんて……。
  なぜ鳥インフルエンザウイルスが人にうつるようになったのかについてはさまざまな説があります。水鳥のウイルスがニワトリで感染を繰り返すうちに、人に伝播しやすくなったという説や、ほかにもブタの介在を示す研究もあります。
  いずれにしても、ホンコンで人にうつることが確認されたウイルスはH5N1亜型と呼ばれるもので、現在世界に流行しているウイルスはその子孫です。最近の発症状況をみると、これまで考えられている以上に、鳥インフルエンザウイルスは人に感染し、しかもその毒性はより強力になっているとみるべきなのです。
   
卵や鶏肉は基本的には安全

  日本でも2005年には茨城県の養鶏場でH5N2型の鳥インフル感染が確認され、一時鶏肉や鶏卵の消費が落ち込みました。
  茨城の事件は、私は“一触即発”の事態だったと考えています。まだ弱毒のウイルスでしたが、あのタイプはほうっておくと強毒になる可能性が非常に高いのです。幸い、農水省など関係機関の適切な措置で、ウイルスが変異する前に、ニワトリを殺処分することで、感染の拡大を防ぐことができました。
  今年の春までに鶏約570万羽が処分されました。殺処分ではなく、ワクチン投与で何とかなると考える人もいるでしょうが、一定の地域からウイルスを除去するためには殺処分が最も効率的な方法です。養鶏業者は困るでしょうが、日本の養鶏業全体のことを考えれば、殺処分するしかない。そのほうがより安心でき、養鶏業全体にとってもプラスになるはずです。
  現在は感染が広がっているということはないので、卵や肉の消費については安全です。そもそも、きちんと調理された卵や肉を食べている限りは、鳥インフルエンザウイルスに感染することはありえないのです。理論的には生卵からの感染は考えられますが、まだその証明はされていません。
  鳥インフルエンザウイルスが流行している海外からの食品を食べると危険かというと、現在はそういう地域からの輸入をストップする体制ができているので、これも安心してよいと思います。
  だからといって何の対策も取らなくていいかということではけっしてありません。世界的流行の兆しが見え始めたら、危険性は飛躍的に高まります。今は養鶏場も世界企業が国境をまたがって経営するケースも多く、ニワトリの移動も頻繁です。野鳥を介してうつる感染が広がることも考えられます。何より、ウイルス感染地で感染した人が来日したり、帰国したりする。その人から人へうつっていく。これはなんとしても防がなくてはなりません。

 
 
   
 
 
河岡義裕さん
パンデミックへの備えはまだ不十分

  この点に関しては、世界の対策はまだ不十分だといわざるをえません。日本でも、政府がH5N1型鳥インフルエンザウイルスを感染症法の「指定感染症」とする政令を決定し、行動計画も策定しています。しかし、実際に感染者が発生したときに交通規制はどうするか、学校や会社はどういう基準で閉鎖するのか、ワクチンの供給や開発はどうするのかなど、具体的な方法となるとまだおぼつかないのが現状です。
  たしかに日本は抗インフルエンザ剤のタミフルの備蓄を最初に言い出した国です。しかし実際の備蓄状況では、他の国と並んでしまいました。むしろ総合的対策では近年はアメリカがめざましい動きをしています。
  抗インフルエンザ剤の開発や備蓄も大切ですが、ワクチンも重要です。もちろん、インフルエンザが流行する前にワクチンを用意するといっても限度があります。ウイルスは変異するし、今後どのタイプのインフルエンザが流行するかわからない。大流行が発生してからワクチンを作るにしても最低3カ月はかかります。しかし、それでもワクチンは重要で、流行の1年目には間に合わなくても、2年目には効果的な対処法になりえます。

   
河岡義裕さん
特定のワクチンをより短時間で製造する方法

  私がウイスコンシン大学にいた1999年、私たちの研究グループは、世界で初めてインフルエンザウイルスの人工合成に成功しました。遺伝学の研究ではウイルスなどを人工的に作り出すためには、「リバース・ジェネティックス」という手法が以前から使われています。インフルエンザウイルスの場合には、1個の細胞に17種類のプラスミド(細胞内の遺伝要因の一種)を入れる必要がありました。当時は、こんなに多くの種類のプラスミドが一つの細胞に入るとは誰も考えていなかった。しかもその17種類をどんな比率で入れたらいいのかもわからない。「成功するわけがない」と研究者の誰もが感じていたのです。ところがやってみるとそれができました。全くの偶然だったのですが、たった一回の試験でインフルエンザウイルスを人工的に合成する方法「リバース・ジェネティックス」を開発してしまったのです。このときの興奮は、今でも忘れられません。
  私たちの研究は、インフルエンザワクチン開発に重要な貢献をしたと考えています。H5N1型のような強毒のウイルスはそのままではワクチンとして使えません。これを強毒ではない形に変えるためには、リバース・ジェネティックスでしかできないのです。これによって、特定のワクチンを短時間で製造することが可能になります。いまやワクチンを作るためには絶対欠かせない技術になっています。現在は、この技術を使って作製したH5N1ウイルスに対するワクチンの臨床試験が世界各国で行われているところです。
  さらに鳥インフルエンザウイルスそのものを調べるにもこの技術は役立ちます。これまではたくさんのウイルスを集めては、変異の状況などを調べていたのですが、リバース・ジェネティックスを使えば、ウイルスの人工合成ができるわけですから、研究者がウイルスを自在に変化させながら、さまざまな特性を調べることができるようになります。
 
 
   
 
 
河岡義裕さん
科学的発見に興奮する

  もともと動物が好きで獣医学部の道に進みましたが、学部の頃は獣医になるよりも製薬会社の研究室に就職しようかと考えていました。ところが微生物学の授業で私がひと言発した質問を先生に誉められ、それに気をよくして微生物学研究室に入ってしまったというのが、方向転換のきっかけでした。
  研究室では細菌の研究がメインでしたが、インフルエンザウイルスにも少しだけ関わっていました。その頃(70年代)は「ニワトリのインフルエンザウイルスは、野生のカモや白鳥から伝播される」という発見が初めてされた頃で、私も渡り鳥の糞の採取などによく駆り出されたものです。
  その後もいくつかの偶然や、様々な研究者たちとの出会いを経て、私はインフルエンザウイルスを専門にするようになりましたが、それを支えたのは、やはり「新しい発見をしたい」という研究者としての好奇心だったかもしれません。人類を救うなどという深刻なことではなく、ひたすら新しい科学的発見に興奮する。それが、私がこの仕事を続ける原動力になっています。ただ、「サイエンスするのはあくまでも人である。自分が正しいと思うことを発言し、実行せよ」という恩師の言葉は、今も忘れてはいません。
  「もしパンデミックが発生したら、一般の人ができる対策は」と、ときどき尋ねられますが、結論からいうと「何もありません」。社会は完全なパニック状態になるでしょう。ほんとうは自宅にこもってじっとしているほうがいいんですが、そうは言われても会社に出かけてしまうでしょうし。逆に、肉や卵は安全だといくら言われても、みんな買い控えしてしまうでしょうしね。
  だからこそ、パンデミックを起こさないための国としての対策が必要なのです。より具体的な行動計画はもちろんのこと、抗ウイルス剤の開発、備蓄、さらにワクチンの研究開発体制の強化まで踏み込んだ対策が求められています。感染症対策では一国だけでなく、世界保健機構(WHO)や各国政府、医療機関、研究者との国際協力も不可欠です。やるべきことはまだまだいっぱいあります。
 
[コラム]河岡氏のリバース・ジェネティックスとは
「リバース・ジェネティックス(逆向き遺伝学)」は、核酸から生きたウイルスを作り出す技術。河岡氏らのグループは、この方法を用いて、ワクチンのもとになるウイルス(ワクチン株)を従来よりも短期間で作るのに役立つ手法を完成させた。
  鳥インフルエンザウイルスのワクチンは、ワクチン株を鶏卵に接種し培養などした後、薬剤で不活化するなどして製造する。しかしH5N1型のように毒性が強いウイルスを株として使うと、卵が死んでしまう。「リバース・ジェネティクス」法で、弱毒化した株を人工的に合成することで、その後のワクチンの製造が容易になる。理想的な弱毒生ワクチンの開発だけでなく、遺伝子治療への応用の可能性も開くものとして注目されている。
  こうした研究が評価され、河岡氏は米国の研究者らと共に、2006年ドイツ最高の国際的医学賞であるロベルト・コッホ賞を受賞した。 *参考図書:『インフルエンザ危機』(集英社新書)
 
【プロフィール】
かわおか よしひろ

1978年北海道大学獣医学部卒業。鳥取大学農学部助手、米セント・ジュード・チルドレンズ・リサーチ・ホスピタル教授研究員、米ウイスコンシン大学獣医学部教授を経て、東京大学医科学研究所ウイルス感染分野教授、同感染症国際研究センター長。91年日本獣医学会賞、2006年ロベルト・コッホ賞受賞。国際ウイルス分類委員会オルソミクソ属委員長も務める。著書に『インフルエンザ危機』(集英社新書)がある。

発行/(財)生命保険文化センター
Interview & Writing/広重隆樹
Photo/吉村隆
Editor/宮澤省三(M-CRUISE)
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