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いまやりたいことを今やるのが、ワタシ流。
湯川れい子さん写真  進駐軍のラジオから流れてきたジャズに夢中になった多感な少女は、やがて音楽評論やディスクジョッキーという戦後の新しい職業の草分けの一人になった。エルヴィス・プレスリーやビートルズをいま私たちがスタンダード・ナンバーとしてふつうに聞いていられるのも、この人がその魅力をいちはやく紹介してくれたおかげ、といってもよい。湯川れい子さん。その音楽評論歴はすでに45年以上に及ぶ。
  音楽への貢献は、評論だけに止まらず、作詞家・訳詞家としての才能も早くから発揮。1965年、エミー・ジャクソンが歌ってヒットした「涙の太陽」の詞は湯川さんの手になるもの。ちなみにこの曲は和製ポップスの元祖といわれる。その後も、アン・ルイス「六本木心中」のほか、稲垣潤一、小林明子、中森明菜、中島美嘉、ラッツ&スターらにも詞を提供し、ヒットさせてきた。
  日本音楽著作権協会理事、日本作詞家協会副会長、文科省中央教育審議会委員、環境省中央環境審議会臨時委員などの公職のほか、環境問題や反戦平和運動への関心も高く、複数のNPO、NGOの役員を務める。
  まさに八面六臂の大活躍。その元気の源はどこにあるのだろうか。4匹の猫と一緒に暮らす世田谷区のご自宅を訪ねた。
 

■ 子育てを通して感じた水と緑の問題
 音楽も環境も平和への思いも、私にとっては基本的に一つなんです。全部そのときに興味のあること、いまこれやりたい、それに関心があるということをやっているだけ。
 もともと音楽って目には見えないものでしょう? 作曲家もアーティストも、私のように音楽について書く人間も、目に見えないものに触発される人種なんですね。音楽のバイブレーションとリズムに触発されていると、他の生きとし生けるもののバイブレーションやリズムを感じることが、他の人より少し上手になるのかもしれない。だからそういう人って、同じコップ一杯の水道の水やお茶を飲んでも、理屈を超えて「これ、ちょっと変じゃない?」と敏感に感じるセンサーが働きやすい、というか。
 子どもが小さいとき小児喘息気味だったので、3歳から幼児水泳教室に通わせました。そのとき、はじめて人の健康と環境との関係について、具体的にいろいろ考えさせられるようになりました。アトピーという言葉がようやく人の口に上るようになったころ。お母さんたちの健康への関心も高まっていました。
 それこそプールの水に、なんでこんなに苛性ソーダや塩素を入れるんだろうとか、食品添加物は安全なのだろうかとか、心配するお母さんたちが周りにいて、素人なりにいろいろと手分けして調べるようになり、環境団体をつくることになりました。
 そのころはまだ、環境というと、過激なおばさんたちが何か言っているという感じで、みんな引いてしまう。でも、こういう問題は若い人こそ敏感になってほしいと、歌手の早見優さんを口説いて、92年にはブラジルで開かれた地球サミットに、彼女を環境大使として送り出すというようなことをしました。
湯川れい子さん写真
■ 「ほらねっ」って後から言うことがたくさん  
 音楽は目には見えないけれど、人の心を癒す不思議な力を持っています。それをもっと科学的に解明ができるのではと、20数年来、音楽療法の勉強を重ねてきました。その一環でもあるんですが、この5〜6年は子守歌復興運動というのをやっています。
 これはとても単純なこと。赤ちゃんが生まれたら、どうぞお母さんは、ちゃんと抱いてあげてください、おっぱいをあげるときも、黙っていないで何か話しかけてあげてください、けっしてテレビに子守をさせないでください、ということなんです。 生まれてきた新生児に、胎内で聞いていたのと同じ声で子守歌を歌って聞かせるというのは、感性を育む原点だと思うんですね。 でも、それがどうして大切か、知らないお母さんがますます増えています。
  そんなことを私が言っていましたら、昨年でしたか、「赤ちゃんにお母さんが声をかけるのと、他人が声をかけるのとは、赤ちゃんの脳の活性化が全然違うことがわかった」という専門家の発表がありました。「ほら、ご覧なさい」って(笑)。それまで、女の直感だとか、オカルト的だとかさんざん言われてきたことでも、いつか裏付けがちゃんとなされるときが来るんですね。
  そういう意味で、いま私が大変な危機感をもって感じているのは、憲法9条のことなんです。いま憲法9条を捨ててしまったら、日本は大変なことになるって直感で思います。けっしてイデオロギーで政治運動をするつもりじゃなくて、音楽を聴いているのと同じ、赤ちゃんに歌を唄ってあげてというのと同じ感覚で、これからも発言していこうと思っています。
■ もう後は、道楽のような気分で旅をする
 直感といえば、もう私なんて毛穴だけで生きてきたようなものですから(笑)。かつてエルヴィス・プレスリーはすごい人なのよ、と言い出したときも、最初はあまり相手にしてもらえかった。日本の洋楽はどうしてもビートルズが原点のようなところがありますから。でも、エルヴィス・プレスリーがあったからこそ、ビートルズがあったのだと今になれば解っていただけると思います。
  そのビートルズの来日公演のときだって、当時は「あんな奴らに神聖な武道館を貸すなんてもってのほかだ」とお怒りになるおじさまたちがいらしたものです。でも、それは違うと反対しました。何が違うって、うまく説明はできなかったけれど、少なくともビートルズを聞くと元気になるし、みんな仲良くなれるし、けっして不道徳な音楽でもなんでもない、って。でも、なかなかそれが理解していただけない時代でしたね。
  今年でビートルズ来日40年になりますけれど、いまや教科書にも載る大スタンダードじゃないですか。「ほらねっ」って(笑)。私がそのころ言っていたことと、いま言っていることは変わっていません。誰かに言われて書いたり、これ、売らなくちゃいけないから書いたなんてことありませんから。ただひたすら自分の直感を信じて、言い続けたり書き続けたりしてきただけなんです。
  直感の赴くまま、いろいろなことをしたいけれど、もちろん身体は一つ。だから、することを選ばないといけません。子育て真っ盛りのころは、子どものことを考えて、自分をセーブしてきたこともあります。でも、幸い子どもももう社会人ですし、今は道楽のつもりで、自分の好きなことに時間もお金も、すべて使いたいと思うようになりました。それって幸せなことですよね。
  去年の1月と今年の2月にはインド、そして今年の3月にはフィンランドのラップランドにオーロラを見にいってきました。
  インドから北極圏のラップランドでは気温差50度もあって、大変でしたけれど(笑)。サーメ(北極圏に住む先住民族)の人たちの音楽を聴いたり、 オーロラに抱かれたり、ほんとにすてきな旅でした。
湯川れい子さん写真
  ■ ニューオーリンズで見て聴いたこと
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 この間、5月の連休はニューオーリンズでした。これは昨年、アメリカ南部を襲ったハリケーン・カトリーナ被災者救援のための募金活動「ハリケーン・エイド・ジャパン」の一環なんです。去年、カトリーナが猛威をふるっていたころ、ちょうど私は出張先のホテルで、夜CNNの放送を見ていました。ニューオーリンズは知っている街。ハリケーンの被害もさることながら、避難した人びとになかなか救援の手が差し伸べられない。「ここがあのアメリカ!?」というくらいひどい状況で、いてもたってもいられず、作曲家の三枝成彰さんやデーブ・スペクター(放送プロデューサー)さん、ジャズ・ミュージシャンの日野皓正さんたちにも呼びかけて、募金活動を始めました。
 それが1500万円ほど集まり、それをルイジアナ州の知事に直接手渡すべく、行ってきたんです。被害の状況についてお聞きしたかったのと、日本で集めた募金をどのように使っていただけるのか、今後のことも含めて、直接州知事からお話を聞きたいと考えたからです。
 ニューオーリンズの街は、いまだ電線は垂れ下がったまま、家は荒れ放題で、復興はなかなか進んでいません。幸い、ジャズの故郷ともいわれるフレンチ・クォーターのあたりは冠水を免れ、白人のミュージシャンのライブ演奏なども行われていましたが、黒人のミュージシャンたちはまだ街に戻ってきていない。それどころか、このあたりでウエイトレスやいろいろな仕事をして働いていた黒人たちが、まだ市内に戻れない状況のようなんですね。
 こんなんふうに、いまこれやりたい、これに関心がある、ということをやっているだけで、自分ではこれは道楽だと位置づけています(笑)。
 私が何かやりたいというとき、女性たちのネットワークがそれを支えてくれることを、大変心強く思っています。これまでは、経済でも政治でも男の人たちのネットワークが力を持っていた。反面、それがいろんな癒着にもなってきました。組織をつくって何かをするということは、女性の歴史の中にほとんどなかったし、女性が社会の中で堂々とものが言えるようになったのは、日本の場合は戦後になってから、たかだか60年ですからね。だからこそ、まだまだこれからが面白いんじゃないかと思っています。
  ※1 捜索隊や軍がチェックに入ったという印が、各家の壁に残っている。ドアの上まで浸水したニューオーリンズのロウアー9thワード地区一帯の家
※2 キャサリン・ブランコ・ルイジアナ州知事と知事官邸で
※3 義援金10万ドルのボードを持ってのプレゼンテーション。(左から)坂戸日本総領事、湯川れい子さん、ブランコ知事、大河原愛子(J.C.コムサ社長)
「ハリケーン・エイド・ジャパン」ホームページ
 
湯川れい子さん写真
ゆかわ れいこ
●東京都目黒で生まれ、山形県米沢で育つ。
1960年ジャズ専門誌 『スウィング・ジャーナル』への投稿が認められ、ジャズ評論家としてデビュー。「全米TOP40」などのラジオ番組のDJや、エルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広める評論活動を通して、国内外の音楽シーンを紹介し続けてきた。作詞家としても『涙の太陽』『ランナウェイ』『センチメンタル・ジャーニー』『ロング・バージョン』『六本木心中』『恋におちて』など多数のヒット曲をもつ。著作も多く『幸福へのパラダイス』で90年に日本文芸大賞ノンフィクション賞受賞。2004年には、日野原重明氏との対談集『音楽力』を出版、2005年には音楽評論家生活45年、作詞家生活40年を記念して『湯川れい子のロック50年』(シンコーミュージック・エンタテインメント)が出版された。

湯川れい子音楽事務所Office Rainbow

発行/(財)生命保険文化センター
Interview & Writing/広重隆樹
Photo/吉村隆
Editor/宮澤省三(M-CRUISE)
Web Design/Ideal Design Inc.