特集-1 女性の地位の違いが日本との差  ─フランスに見る中高年世代の現状─
法政大学教授 風間 研

風間 研[かざま けん]
1946年、東京生まれ。67年、フランス、ブザンソン大学留学、74年、立教大学大学院文学研究科修了。フランス文学・演劇専攻。現在、法政大学経済学部教授。主な著書に、『演劇の荒野から』(青弓社)、『パリの芝居小屋から』(筑摩書房)、『スペクタクルの感性』(河出書房新社)、『大恋愛』(講談社現代新書)、『小劇場の風景』(中公新書)、『パリの文化誌』(潮出版社)、『幕間のパリ』(NTT出版)、『舞台の上の社会』(みすず書房)などがある。


 意外と知られていないが、フランスで女性が参政権を獲得したのは、日本と同様に戦後になってからである。にもかかわらず、こと女性の地位に関しては、日本よりもずっと進んでいる印象を受ける。
 戦後のベビーブームを反映して、1960年代の後半に驚異的に女子学生が増えた現象も同じなのだが、その結果、すし詰め教室に不満を抱いたフランスの学生たちは行動を起こし、周知のごとく68年に「五月革命」という形で終結した。その結果、旧態依然とした体制は揺すぶられ、多くの改革がなされることになった。
 戦後60年たったいま、日仏の女性たちの生き方をみてみると、明らかにフランスの方が先を行っている。それは、彼女たちはもちろん、男たちも巻き込んで、自分たちの手で一つ一つ権利を獲得してきたからだろう。その誇りと自信が、いま二国間の差となっているようだ。
 確かに、いまではパリと東京の間を1日何便も500人以上乗れるジャンボ機が往復している。フランスは距離的にも近くなった。当然、ぼくたちが下駄履き感覚でパリを闊歩するように、彼らも経済大国日本のシステムを受け入れるようになった。
 そのせいがあってだろう、最近のフランス映画には、仕事好きの「会社人間」や、それに愛想を尽かす中年の妻が出てきたりして、少なからず驚かされる。彼らは1ヶ月のヴァカンスのために11ヶ月働いていたのではないのか!
 『八日目』(ジャコ・ヴァン・ドルマル監督、96年)でダウン症の男と不思議な友情で結ばれる男の妻がそうだったし、コリーヌ・セロー監督の『女と男の危機』(90年)や、最新作『女はみんな生きている』(2003年)にも、同様の妻たちが登場してくる。また、『家族の気分』(セドリック・クラビッシュ監督、96年)では、日々の生活で鬱積した不満を、自分の誕生日に、涙ながらに夫にブチまける妻のシーンも出てくる。
 『女と男の危機』に登場する敏腕弁護士の主人公は、ある朝、突然十数年連れ添ってきた妻に「雲隠れ」される。男は理由が分からず狼狽えるが、映画は、むしろ世の男どもに、なぜ妻が出ていったか、見ている者と一緒に考えようという体裁で作られている。別に愛人ができたわけでもない。 これが日本だったら、とりたてて目新しいことでもないだろう。夫が反省することもなく、なし崩し的にバツイチの運命を受け入れて終了しそうだ。 こうしてみると、フランスの場合、確かに離婚率も高いが、問題点を社会全体で主体的に捕らえているように見える。映画でも、その原因は夫の側にあるとして、反省を促す。そしてそれが説得力を持って観客に迫ってくるのである。こうなると映画といえど侮れない。日本では運命として忍従している現象が、フランスでは社会問題にまで高まり、人々が関心をもつ。このへんに、似ているようで似ていない二国間の「違い」の原因がありそうだ。

 一方、最近の日本でも、結婚しない女性が増えていたり、中高年世代の離婚は華やかだが、この現象を男社会が終焉したからだと考えていいのだろうか?
 どうもそうは思えないのである。いくら女性が社会で認められても、家庭に帰れば主婦としての仕事を強要されるのが、社会の共通認識としてある日本。いくら女性が受験戦争を勝ち抜き、総合職に就いて頑張ってみても、苦労するのは本人だけという状況に変化はない。
 当然、統計的にも高学歴の「結婚しない女性」は増えるだろう。経済的に自活できるのだ。ぐうたら亭主のために「おさんどん」する必要性がどこにある? かくして、花の「独身貴族」女性が増えた。だが、「会社人間」となった彼女たちは、人生において本当の幸福を享受することができるのだろうか? 
 たとえば、最近話題になった『女はみんな生きている』に登場してくるのは、パリのどこにでもいる、平凡な中高年世代の女性だ。自分自身、キャリアウーマンとして充実した日々も送っており、金銭的にも精神的にも人が羨む環境にいることはいる。とくに強い離婚願望があるわけではない。夫は夫で会社を経営している実業家のやり手。一人息子も大学生になっており、女子学生と屋根裏部屋で同棲生活こそしているものの、ま、中年婦人の生き方としては、かなり平穏無事で安泰なものだろう。
 しかし、このところ「虚しさ」に襲われている。老後もこのまま、夫との単調な生活を続けるのがいいのだろうか。これは、新しい形の倦怠期なのかもしれない。そんなおり、ある夜、ちょっとした事件に遭遇する。
 夫が運転するマイカーで、友人のパーティに出かける途中、道で暴漢に襲われた商売女が、車中の2人に助けを求めてきたのだ。動転した夫は車に施錠し、女を見殺しにする。妻は夫のとった行動にまず驚くが、それと同時に瀕死の女が助けを求めているのに自分も無力だったことに、二重の良心の咎めを感じるのだった。
 だから、翌日、妻は女が入院している病院を探し出し、以後しばらく、主婦を放棄し、自宅に帰ることもなく、病室で看病を続ける。映画は、何故女が商売女に零落したのか、社会の問題、人種問題(女はアルジェリア系だった)を見ている者に喚起しながら、現在のフランス女性が置かれている位置について、鋭く切り込んでいく。
 さらに、映画は、この国に生きている男たちの意識の後進性を指摘する。女性監督の目にはまだまだと映るのだろう。妻が仕事から帰ってきても、夫も息子もテレビの前から動こうとせず、彼女が夕食を作るのを待っている。洗濯やアイロンがけにしても同様だ。一見、日本とそう変わらない情景だ。だが、注意して見ていると、映画は男が悪いと、直接、弾劾しているのである。
 ならば、この妻よりも若い世代では、意識変化も著しいと思うのだが、それがそうでもない。むしろ諦めている印象さえ受ける。たとえば、同じ監督の『女と男の危機』に登場してくる主人公の妹の、30歳前後のキャリアウーマンは、もはや結婚にも男との同棲生活にも、幻想を抱いていない。
 映画では、明け方の3時に、突然やってきた愛人の男に、彼女は、翌日出直して来いと言う。突然の訪問は、これまでにもあったことだ。だが、その夜は少し様子が違う。それもその筈で、彼は重大決心をしてやって来たのである。妻子を捨て彼女と新生活をスタートさせる決心をしてきたからだ。しかし、彼女は、そう誇らしげに宣言する愛人に感動する様子もなく、逆に、一方的に決めるなと怒るのである。
 それは、彼を愛していないからではない。一緒に住まなくとも、時々逢っているいまの関係がベストだ。四六時中一緒にいて、なんだかんだと面倒見させられるのはご免だ。仕事から疲れて帰宅した後の自由時間は、自分の好きなように過ごしたい。本を読んだり、テレビを見たり。好きなときに、オナラもしたい。さらに、興味もない夫の親友などに家の中を歩き回られるのは最悪だし、毎朝、義理の母に電話して健康状態などご機嫌とりをするのは、もっと嫌だとまで言うのである。
 現象として、フランスで、結婚しないカップル(便宜上、「事実婚」と呼ぼう)が増えだしたのも、やはり「五月革命」以降のことである。ちょうどこの時期に学生生活を送っていたぼくの経験を言っても、友人たちの誰一人として正式な結婚などしなかった。妊娠し出産をしたのを契機に籍を入れたカップルこそあったものの、大半は同棲生活を続けていた。実際、統計をみても、90年代半ばには、結婚率は激減したのである。と同時に離婚も急増したが、それは経済的自立を獲得し、対等な筈の男との共同生活への幻想を砕かれたからだろう。だから、再婚率も圧倒的に女性の方が低くなった。結婚も男との共同生活も、もうこりごり。90年の調査を見ても、「片親」家庭の9割は母子家庭で、その43パーセントは離婚によるもの。かつて多かった死別は激減しているという。(浅野素女『フランス結婚事情』)
 案の定、最近の映画を見ても、現実を反映して、片親だけで子育てしているものが増えている。おばさん女優マリアンヌ・アスカリッドが主演した『マルセイユの恋』(ロベール・ゲディギャン監督、96年)では、髪振り乱しながら、パートで頑張って生きている中年の母親が主人公で、彼女はセザール賞で主演女優賞をとった。
 他にも、『ニノの空』(マニュエル・ポワリエ監督、97年)にも、数人の異父兄弟を育てているシングルマザーが登場するし、『シングルガール』(ブノワ・ジャコ監督、95年)の若い母親も忘れがたい。
 女性たちが、家庭を飛び出し社会に出ている現象は、日仏で変わりはない。人生観の変化も同様だ。だが、究極の問題は、彼女たちが老後をどう幸福に過ごすかということだろう。一緒に老いていった夫や、可愛がった子供や孫と、平凡に暮らすことが悪いわけではない。もっとも、これからは、それを嫌う中高年世代の婦人も増えるだろうし、また、そう思い通りにいかない母子関係も多くなりそうだ。映画を見ていると、いまの段階では、社会の仕組みがより柔軟なフランスの方が先を行っているように見える。だが、彼らにしても模索中で、まだ結論が出たわけではない。また、そう簡単に解決できる問題でもなさそうである。
 
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