特集-1 既婚女性にとっての家庭と仕事 その2
山あり谷ありの事業も、自分のために仕事してきた
―親の仕事に対する真摯な姿勢が子どもを育てる―
工房ごろろんき インテリアプランナー 大谷陽子
京都・大原三千院といえば、洛北の人気の観光地。その大原の集落のはずれ、琵琶湖に通じる若狭街道沿いに『工房ごろろんき』のショールームがある。といっても整然と家具が並んでいるわけではない。いかにも手作りの家具にふさわしく、さりげなく置かれた家具たちがイキイキとみえるレイアウト。そこに木工家具作家である夫を時に叱咤し、励まし、共に歩む、マネジメント役の大谷陽子さんの姿がある。

大谷 陽子[おおたに・ようこ]
1948年、北海道札幌市生まれ。京都在住の抽象彫刻家(当時)の大谷和正氏と74年に結婚。2人のあだ名「五郎太」と「(いつも)ゴキ(ゲン)ちゃん」にちなんで工房を「ごろろんき」と名付け、5年後に工房や住居、店舗を備えたクラフトショップを京都市左京区に構える。夫の手がける家具を全国で展示や販売。90年に現在地の大原に移り、ショールームを開設。インテリアプランナーの資格を持つ。2児の母。
■札幌の木工制作工房で出会って

東京の大学を出て故郷の札幌に戻り、カメラスタジオの助手や、広告会社、損保会社でOLをしていた陽子さん。夜は、アイヌ民具の復元を中心とした木工制作工房『北のクラフト』で復元作業のアルバイトをしていた。そこに、藤川デザイン学院(現、京都造形芸術大学)の休みを『北のクラフト』で過ごしていた大谷和正さんが木工修業のためにやって来る。

 彼は、自分の理想をもって黙々と木工に取り組んでいる姿勢が印象的でした。といっても、それ以上の感情はなかったんですが、彼が京都に戻ってから速達で文通したり、鎌倉や信州で会うようになりました。で、ある日突然「あした、結納を持ってそっちに行くから」と電話があり、もともと結婚願望はなかったんですが、自由に貪欲に仕事をしてる彼なら、私の自由も許してもらえるかなと、結婚を決意しました。26歳の時です。
 結婚して数年は糸ノコやサンドペーパーを持って、彼の手伝いをしましたが、そんな経験や、『北のクラフト』時代に学んだモノのフォルム、リズム、見方がその後の私の仕事に大いに役立っています。
 彼はもともと抽象彫刻をやりたかったようですし、そのまま進んだら今の私の仕事はなかったんですが、木工のデザイン玩具や、道具としての家具を手がけるようになり、やがて北白川にクラフトショップをつくることになって、私の人生ががらりと変わりました。(笑)
 77年に北白川通りにワークショップ形式の工房兼ショップをオープンさせましたが、2,000万円の予算で、実際にかかったのが3,380万円。もう「ド素人」でしょ、(笑)まるっきりの赤字スタート。しかも、ショップのオープン25日後に長男が生まれました。ですから、大変! と思うかもしれませんが、実は私、子どもを抱いてミルクを飲ませたことはありません。基本的に子どもって丈夫なものだし、親はなくても子は育つっていうでしょ、事実、その通り育ってきましたし、当時は子どもが泣いていても、お客様がいたらそちらのほうを優先していました。私としては、彼の作品をより多くの人に知ってもらおう、使っていただこうということに必死でしたから。


■倒産寸前の危機を、彼の一言で乗り超える

ショップがオープン、長男に続いて2年後には長女が誕生。そして2人の成長と合わせるように、和正さんの作品に変化がみられるようになり、夫妻のあいだでも、また事業もひとつの転機が訪れる。夫は独創性あふれる家具を手がけ、妻は全国で展示や販売を通して、その活動範囲を広げていく。そして拠点を大原に移すが……。

 彼の作品の内容が子どもの成長に合わせるように、初めは木工のおもちゃ、次にイス、机、そして大きな家具という具合に変わってきました。当初ショップではおもちゃをはじめ、身の回りの生活用品がまず置かれました。それこそ、あの頃はゴミ箱みたいな手づくりの生活用品って売ってませんでしたから、自分たちが生活していくうえで、本当に欲しい物や使いたい物が売ってないなら自分たちでつくるしかないという発想から商品もどんどん増えていきました。
 オープンの時にお金を使いすぎたので、ショーケースやドアも彼がつくりました。実は、それが家具づくりの始まりになり、彼の関心がだんだん家具に、それも大きな家具へと移っていった。工房も、主人だけではなく、木工を勉強したい人たちに開放して、いつも若い人たちが出入りしてましたし、木工家志望の外国人が居候してたこともありました。
 私自身は直接物づくりに携わってはいませんでしたが、ショップのマネジメントや、全国での展示会のアレンジメントなどを通じて、お客様に本当にいい物を選んで使っていただきたいとやってきました。
 それが、5年経ち、10年経つと、それまでわき目をふらずに走り続けてきた自分にふと気づくわけですよ、「このままでいいのかなぁ」と。スタッフも増えてきて、お客様も増えてきたんですが、彼の考えが私も含めて個々のスタッフに完全に伝わっているのかなという疑問です。それと、女であることの限界もちょっぴり見えてきて、私にしては弱気になった。
 一方で、事業規模の拡大もあって、82年に『工房ごろろんき』を株式会社にして、89年には13年間のショップ活動に区切りをつけて、90年に拠点も今の大原に移し、木工家具専門として再出発、93年にショールームをオープンさせました。オープンまで3年のブランクがあるでしょ、この間が大変でした。三千院のある、ここ大原は市街化調整区域なので、建物を建てること、商売をすること、工場にあたる工房をつくること、すべてをクリアーするのにたいへんな思いをしました。
 私自身は、公的資格である「インテリアプランナー」の資格に挑戦しました。単なる売り手ではなく、もう一歩踏み込んでインテリアの設計から施工まで室内空間の全行程をフォローする、いわば建築士に近い領域で、お客様にインテリアの提案ができないかなぁと思ったんです。作り手と使い手の間で、使い方を100%決めてしまうのではなく、家具は生き物ですからいつまでもいとおしんで育てて使って欲しいんです。例えば親は食器棚として使っていたのを、その子どもが受け継いで本棚にして使うとか、そしたら、家具だって喜ぶと思いますよ。
 そんな思いで、合格率20%ちょっとという難関を突破し、資格がとれたんです。自分で自分を誉めてあげたい。(笑)

■親の背中を見て育つ

「親はなくても子は育つ」と語った子どもはというと、中学を卒業した長男は、サッカーをやりたいとサッカーの強豪高校進学を目指すが、受験に失敗。1年浪人して志望校に入学したものの、結局その道へは進まず、今はアーティストとして活躍中。長女もいまは家にいるものの、映像の世界を目指している。

 子どもたちには「借り」があると思ってます、小さい時からロクに構ってあげませんでしたから。でも、父親が仕事に打ち込む後ろ姿を見て育ってきましたし、私の歩んできた道もね……。
 ただ、子どもを巻き込んで、私も彼と別れを決意して、その寸前までいったことがあります。彼はいい仕事をしようとするあまり、欲しい木はあとさきを考えずにすぐに買ってしまう。そのことはいいんです、でも生活も考えてくれないとね。それで、借金が重なり、もうお手上げ。倒産しかないと覚悟を決めて、私はまわりの人にもその現実をかくすことなく伝え、いよいよ明日倒産という、前の日の晩に彼は隣の工房から戻るなり、子どもたちを前に「申し訳ない」と謝まった。その言葉を聞いた瞬間、私は「冗談じゃない、なぜ頑張ろうって言えないの」「倒産なんて、やめた!」と叫びました。彼も驚いたようですが、その気になってくれて、私財を売ったり、もちろん彼は仕事をし、それこそ馬車馬のように働き、2年近くで膨大な借金もほぼ返し、あと一歩というところで、今度は工房が火事に遭い全焼。新しい店舗の頼まれた什器もできあがり、7・8人分のテーブルも納品寸前で、これを集金したら借金が全部チャラになるというものがすべて焼けちゃったんですから、これはもう笑うしかなかったです、実際。 
 でも、ありがたかったですね。みなさん駆けつけてくれて火事見舞金が600万円、幸い母屋は残りましたので、お見舞いのお酒で毎晩40人ぐらいでドンチャン騒ぎです。火事現場に残ったものは、子どもが幼稚園の時に「お父さんありがとう」と書かれた素焼きの灰皿ひとつ。その時、いちばんにしなければならないのは2枚とない選び抜かれた材料。お客様が選んだ木は焼けてしまった。お金をいただいてるし、返金もと思いましたが、それでも、そのお客様は何年かかってもいいから、またいい材料を見つけて仕上げてくださいと。
 もう現場検証もほったらかして、すぐに材料を集めて、道具も古い付き合いの道具屋さんがすぐ届けてくださったので、次の日には仕事を再開しました。
 考えてみたら、そういうお客様ばかりです。別にお客様を選ぶわけではないのですが、頭を下げて売るのではなく、作品を気に入ってくださった方に売る。そのほうが家具だって幸せじゃないですか。彼との仕事を通して私も自由にいられたのは、そういうことです。子どもたちもそういうことを分かって、いま自由にイキイキとしています。

■喧嘩なんてしょっちゅう

和正さんのつくる家具は「生きている」と陽子さんは思う。素材である木を吟味し、その持ち味を生かす作風、造形的なにおいのする家具、「家具は彫刻だ」と言ってはばからない、その影に陽子さんの姿が見え隠れする。和正さんは、作品を世に問うとき、まず彼女に問うという。

 彼のつくる家具が生きているというのは、素材の生かし方にも表れています。工芸素材としての木の魅力を知っていますから、たとえば素材のなかに傷や穴、不揃いな木肌、節があるとしますね。それは、伝統工芸とか、あるいは傷を気にされる方の住まいの家具としては、はね品になり、切り捨てられてしまう部分でしょう? でも、彼は整った木目にはこだわらず、逆に生かす。樹齢の長い木のすごさというのか、長年ふんばってきたなりのものがありますから、それをコンプレックスと思わずに、プライドに代えてあげたいと、たぶん考えているんだと思います。
 東京、札幌、倉敷……、各地で展示会をして、お客様が増えましたし、京都という土地柄で、全国からみなさんいらっしゃるので、その通り道、フリーで入ってくる方も結構います。また、北白川のショップ時代から続いてる方もずいぶん多く、宣伝なんてしてないのに、口コミでお客様が全国にいらっしゃいます。
 なぜ、こんなに続いたのか。ひとことで言うと、お互いに「わがまま」だからかもしれません。(笑)もちろん彼は限りなく自然体で、仕事に対してわがまま、私も自分のためにわがまま。だって、仕事をしてるといっても、夫のためでも誰のためでもありません。自分のために仕事をしてきたし、これからもたぶんそうでしょう。彼とは、主人というより仲間ですね。お互い自分のないものを相手に見出し、それにひかれて一緒になったわけですから、喧嘩なんてしょっちゅうですし、そこから生まれてくるものって大きいと思います。(談)
 
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