特集1 くらしと生きがい
チームへの貢献が自分の生きがい
元広島東洋カープ・横浜大洋ホエールズ監督 古葉竹識
 私の場合の「生きがい」というと、これまでの人生の大半を野球で過ごしてきたわけですから、やはり野球を通しての「目標」が、生きがいになってきました。
 それこそ、小学生のころから野球をやっていましたので、優勝を目標に頑張ることが生きがいに通じます。幸運なことに、その小学校からプロ野球の世界でも何度か優勝という体験をさせていただきましたが、といって目標が達成されれば生きがいがなくなるというわけではありません。その時々の立場で優勝だけではない、もっと大きな人生の生きがいがありますし、現にいまはグラウンドでプレーすることはありませんが、私なりの生きがいを感じて生活しています。

古葉竹識[こば・たけし]
1936年、熊本県生まれ。専修大学中退、日鉄二瀬を経て、58年広島カープに入団。
1年目から2番・遊撃でレギュラー。64年、68年盗塁王。70年南海ホークスに移籍。74年、広島に戻りコーチ。75年5月3日、ルーツ監督のあとを受け、監督に。日本列島を赤ヘル旋風に染めあげ、弱小広島をいきなり初優勝に導く。その後、79、80、84年と3度の日本一に輝き、「名将」として知られる。85年広島を辞め、87年から3年間、横浜大洋ホエールズの監督に。99年、野球殿堂入り。現在、野球評論家の一方で、(社)少年軟式野球国際交流協会理事長を務めるなど、少年野球の普及に努める。

■少年時代から強いプロ志向で頑張る
 小学生のとき、熊本市内には大きな野球大会が3つあり、そのすべてに優勝しているくらい、私たちの学校は強くて、私のあだ名は「豆ジープ」。戦後、熊本にも米兵がやって来て、ジープが結構走っていました。そのころから小柄で足が速くて、ちょこまかしていたんでしょうね、(笑)5年生の時に活躍して、新聞に「豆ジープの活躍で優勝した」と載ったことがあるくらいです。
 街の人々も食べ物がない時代なのに、みなさん差し入れをしてくれて、試合をした記憶があります。その人たちのためにも頑張ろう、子どもごころにそう思ったものです。いまでも熊本に帰ると、「古葉さんが走るのを見るのが楽しかった」と。それも、はじめからトップだとおもしろくなくて、離れているのを追い越すのが楽しみで見ていたのよ、って街の人が言ってくれます。
 中学校は、濟々黌高校に行きたいために越境し、濟々黌に行ける学区内に寄留しました。甲子園に行きたかったし、その可能性もあった高校です。まあ、濟々黌には野球で入ったみたいなもので、(笑)甲子園のチャンスは4回ぐらいあったんですが、出たのは2年の時の春だけ。3回戦でサヨナラ負けでしたが、その時のチームメートのピッチャーも2塁手もプロに行ったぐらいですから、かなりレベルが高かった。
 私もできたらプロに行きたいという強い気持ちで、頑張りました。中学生のころから、そう考えていましたが、高校2年で父親が亡くなり、それからは本当に自分が頑張ってプロに入り、母親を楽にさせようと思いました。
 まさに野球漬けで、野球が生きがいでしたね。高校3年になり、立教大学のセレクションを受けるように先輩から言われて行きましたけど、親を亡くして学費も払えないので、やっぱり社会人野球かなと思っていました。たまたま専修大学に先輩が行っていて、来いよと言われて入学しましたが、結果的に1年で中退しました。
 どうしてもプロに行きたくて、果たして大学に4年いてプロに行けるかなと不安もあり、だったら1年でも早くプロに行ける環境に行きたかった。よく私たちの高校のグラウンドに来てらした濃人渉さん(のちに中日、ロッテで監督を務めた)率いる社会人野球の日鉄二瀬は、毎年2、3人プロに入っていて、プロの予備軍みたいで、九州で力のある高校生はみんな濃人さんのところに行きたいと言ってたくらいでした。そこで鍛えられれば必ずプロに行けると確信し、中退して日鉄二瀬にお世話になることにしました。
 濃人さんはすごく厳しかったです。入る時に言われたのは、3年頑張れ、3年でプロに行けなければチャンスはないぞと。それが、僕は2年で行けたんですが、濃人さんとしたら2年で行かせるつもりはなかったと思いますよ。もう1年ぐらい鍛えて行かせようと思ったんじゃないですか。たまたま江藤慎一(のちに中日に入団、数球団で活躍、セ・パ両リーグで首位打者になる)を広島カープが取りに来たけど、彼は私よりひとつ歳下で、濃人さんとしたらまだとても出せない、江藤の代わりに私を推薦してくれました。広島ならレギュラーのチャンスがあると濃人さんは判断したと思います。

▲1975年、「赤ヘル軍団」を率いて初優勝  (写真:共同通信)

■打つことから走ることへ、そして監督学を
 プロ野球選手として初めてキャンプに参加して、正直すごいなと思いました。レベルが高い。もちろん自信はありましたけど、やはり違うと思いました。そこで新人の自分が試合に出るためには何が必要かを考えたわけです。当時の白石勝巳監督からは「オープン戦に使うけど、3割打ったらスタメンで使うぞ」と言われました。ショートには米山光男さんという、当時阪神で名手といわれた吉田義男さんに匹敵するくらい守備のうまいレギュラーがいましたので、その米山さんを追い越そうと考えたら、自分のセールスポイントは打つことだと定めました。
 結局オープン戦で3割近く打ち、開幕戦のスタメンに出て、ずっとレギュラーでフル出場し、8月にはあの金田正一さんからプロ入り初のサヨナラ本塁打も打ったのですが、あまりいいことがあり過ぎて、(笑)88試合目に骨折してしまい、プロ1年目はそれで終わりました。
 選手時代のことでいえば、やはり1963年のシーズンに長島茂雄さんと首位打者争いをしたことが大きな思い出です。前年まで2割5分前後の打率で、体が大きくないのにどうしても引っ張ろうという思いがあったのかもしれません。そこで原点に戻ろうと考えをあらため、また、プロ入り6年目で精神的に余裕がでたということもあります。
 長島さんとは10月に入っても厘差で争いながら、私が12日にデッドボールを受けてしまい、病院のベッドの上でシーズンが終わり、最終的に私が.339、長島さんが.341でタイトルはとれませんでした。翌年、そのデッドボールの後遺症といいますか、自分ではボールに対しての怖さは感じていないつもりでしたが、打つ時にほんの1センチか2センチ、バットの芯を外れてしまう。抜けたと思った当たりも正面をついてしまう。バッティングというのは、それほどナーバスなものなんですね。結局64年は.218という打率で終わりましたが、その代わりというか、バットでチームに貢献できなければ、走ることで貢献しようと思いました。私がプロ入りしたころは、走ることがそんなに重要視されない時代でした。それが、そのころからプロ野球界も大きく変わり、川上哲治さんをはじめとする戦後のプロ野球を支えた先輩がたが現役を退き、世代交代で、足を使う野球が始まりました。私も自分のセールスポイントを機動力に置き直し、57盗塁をして、その年の盗塁王になりました。
 打てなければ走ることに活路を見出す、そこに「働きがい」といいますか、言い換えれば生きがいですよね。(笑)
 1969年の暮れにトレード話がもちあがりました。南海ホークスへのトレードです。当時私はチームでいちばん給料をもらっていたし、12年間チームの中心として頑張ってきたという自負もありました。まだ当時は、トレードは必要ないから出す、というふうにとらえられていたので、正直、何で自分がという思いでした。年齢的なこともあり、もう選手をやめようかなとも。
 でも結局、広島のコーチの「お前何を考えている、これから野球界にとっても大事な人間だ。人生いろいろ勉強よ」という言葉や、70年からプレーイングマネージャーとして指揮をとることになっていた南海の野村克也さん「何をしぶってるんだ、おれが指名したんだから、来いや」と言ってくれて、もう1回自分を試してみようとトレードを承知しました。
 2年間、南海でプレーしましたが、故障もあって思うような成績があげられず、最後のほうはベンチを温めることのほうが多かったし、現役を引退した翌年にはファームのコーチ、そして次の年は一軍のコーチをやらせていただきました。
 これらの経験が、本当に自分のためによかった。あの時はしぶったけど、自分が広島の監督になってから、つくづくあのトレードはありがたかったと思いました。外野も含めていろいろなポジションを経験し、控え選手やファームの選手の気持ちもわかりましたし、選手を育てること、作戦面でも野球の難しさ、面白さを学びました。
 ビジネス社会の社長も、いろいろな経験をし、段階を踏んで社長になるわけで、社内のことを知らなくては社長になれませんものね。野球界では、スター選手が現役を引退してそのまま監督になるケースがありますが、ちょっと違うと思いますね。

■あとの監督のために残しておくこと
 南海がリーグ優勝した翌年に広島に呼ばれ、コーチをやりました。そして1975年、日本初の外国人監督ルーツのもとでサードコーチャーをしていましたが、審判の判定に不服で結局15試合で彼は自分から辞めてしまった。それで、ヘッドコーチから「あとはすべて任せるから、あんたやってや」と言われるままに、「じゃあ、やりましょう」と、39歳で監督になりました。南海で優勝した時の感激をぜひ広島の選手に、そしてファンの人たちに味わってもらいたいと思って引き受けたんです。
 そして山本浩二、衣笠祥雄らの活躍もあって、あれよあれよという間に初優勝しました。球団創設26年目で初めての優勝。広島で本当にすごい歓迎を受けました。あんな浮かれたこともなかった。広島全体が盛り上がってパレードもしたし、市長と対談する機会があり、こんなみなさんが喜んでくれているのに、広島には市民全部が参加できるような祭りがないという話をしまして、パレードをしたあの100メートル道路で何かお祭りをしましょうと言ったんです。それがいまの「フラワーフェスティバル」で、私は広島にあれを残したなと思ってるんです。(笑)
 リーグ優勝しましたが、日本シリーズでは阪急ブレーブス相手に1勝もできずに4連敗で負けました。シリーズは、負けても表彰式をすべてベンチの前で見てなくてはいけない。あんなむなしいことはなかった。勝たなくちゃ、1年間戦ってきたことが何の価値もなく、むなしいと思いました。もっともそのあと日本一になったから言えるかもしれませんけど、シリーズに出た以上は絶対に勝ちたいと思いましたね。最初はみんな勝とうという気持ちがありますし、早く4つ勝ちたいと思う。でも何回か経験して、3つ負けても4つ勝てばいいということを学びました。
 初優勝から3年続けて優勝できなくて、79年80年と連続日本一になれました。日本一は大きな目標であり、生きがいでしたが、それを達成してもういいじゃないかというわけではありません。自分の、そしてチームのモチベーションを維持するために、あらたな目標が設定されるわけです。
 2連覇したあとは、同じ郷土熊本の大先輩、川上さんの9連覇に少しでも近づきたいと思いました。神様に近づきたいと。(笑)そのあと3年あいて、84年に3度目の日本一になったんですが、どこかで自分は辞めないといけないと思っていた。よく言われるんですよ、あいつはいい時だけ監督してと。何も残していかない監督が結構多いんですが、私は辞めてもほかに負けないだけのものをつくって辞めなくてはいけないと思いました。それは何かというと、山本浩二、衣笠がチームを引っ張っていたわけですが、この2人を追い越すだけの選手がなかなか出てこない。出てこないとしたら、負けないだけの投手力をつくるということ。そして実力がある脇役の選手をつくることを考えた。監督を辞める時に山本浩二に言ったことがあります。「球団から監督せいと言われたら、すぐ引き受けなさい、このチームだったら最低5年間は優勝争いができる可能性が絶対あると。おれはそれだけのことを必死になってやってきたつもりだから、その5年間にどれだけ新しい選手を育て、足りないところをつくりあげることで、あと10年20年いいチームで試合ができる」と。
 事実、私がやめた翌年に阿南準郎監督で優勝してるんです。古葉野球の継承といわれましたが、戦力的に十分優勝できると思っていた。そのあと山本浩二が監督になって3年目に優勝しています。

■子どもたちにもっと野球を
 これからは野球界のためといいますか、例えば底辺拡大。ファンサービスを通じて子どもさんたちをどうやって野球に取り込むのかを考えています。アメリカですと30球団、ファームの選手までいれるとプロの選手が5000人いるんですよね。日本は840人、その差はありますが、子どもさんが野球に目を向けてくれるようにもっていくには、アメリカでは野球で頑張って収入を得た人たちが一生懸命ボランティアをしている。日本はまだそこまでいってません。現役の選手でも、巨人の松井秀喜や清原和博が自分の冠をつけた野球教室を開くとかね、自分はシーズンオフの1回でも顔をだして、あとは仲間や先輩、OBに頼んでやってもいいじゃないですか。
 私もやってますけど、親の世代は知ってますが、子どもは私のことを知らないから今の選手が名前をだせば集まりますよ。日本人は冠をつけると売名行為みたいに恥ずかしいと思いがちですが、普通にそういうことができないものかなと思います。
 「耐えて勝つ」というのが、私の座右の銘です。監督の時にもよく言われたんですが、あんなに練習したら肝心の試合で疲れちゃうと。でも、そうじゃないんですね。アメリカは選手層が厚いからいいけれど、日本は違う。チームのなかでいかに選手をつくるかしかないんです。だから遠征にでても移動日でも練習場だけは必ず確保して、練習したくない者は来なくていい、疲れてる者は来る必要はない、しかし、若手で試合に出ていない者がレギュラーと同じ時間の過ごし方をしていたら、いつまでたっても追い越すことができない。そのために練習場を確保して毎日練習しているんです。シーズンが始まると休みなしという状態になります。それだけスタッフに迷惑をかけていますし、大変なんですよ。だから、勝った時の喜びはよけい大きいし、私も生きがいを感じるんです。(談)
 
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