「妙なルール」
日本経済新聞社 編集委員 足立則夫
足立則夫
[あだち・のりお]
1947年東京都青梅市生まれ。71年早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞社入社。 社会部、流通経済部、婦人家庭部記者、「日経ウーマン」編集長、生活家庭部長などを経て、現職。 著書に『やっと中年になったから、41人の「ミドルからの出発」』(日経ビジネス人文庫)、共著に『女のものさし男の定規』(日経ビジネス人文庫)がある。
 哲学というと、つい尻込みをしがちだ。けれどもディオゲネス・ラエルティオスという舌をかんでしまいそうな名前の人が3世紀に書いた『ギリシャ哲学者列伝』なる本を読むと、親しみがわいてくる。
 分厚い本で、岩波文庫の翻訳書ではこの本は上中下の3巻に分けて出している。例えば上巻の最初に登場するのがタレスという哲学者だ。
 彼は天文学にすぐれた才能を発揮した人だったらしい。あるとき、星を観察するために、老婆を伴って家の外に出たが、溝に落ちてしまった。そこで大声で助けを求めたら、その老婆はこう答えたというのである。「タレスさま、あなたは足下にあるものさえ見ることがおできにならないのに、天上にあるものを知ることができるとお考えになっているのですか」と。
 一般市民の質問にもなかなか“含蓄”のある回答を出す。夜と昼とどちらが先に生じたか?「夜のほうが1日先だ」。姦通した男が尋ねる。自分は姦通していないと誓うべきかどうか?「偽誓は姦通より悪くはない」。
 これぐらいはまだ序の口である。
 下巻の冒頭で紹介されるピュタゴラスにいたっては、まるでドタバタ喜劇の主人公のようだ。
 直角三角形の斜辺の平方は、他の二辺の平方の和に等しい。そう、あのピタゴラスの定理を考え出したとされる人である。
 紀元前6世紀、ギリシャのサモス島に生まれ、エジプトに留学する。バビロニアやペルシャにも足を運び、宗教や数学、音楽、天文学などを学び帰国する。祖国がポリュクラテスという独裁者によって支配され、自分の持ち帰った学問をここではいかせそうにない。弟子たちとイタリアのクロトンに脱出し、そこに共同体を作る。
 教祖兼校長のような座に就く。その下には、師の教えを受け入れる聴聞生と、学問を研究する学問生とがいた。学問生が三平方の定理を証明したり、一弦琴で音程の基準を作ったりもした。ピュタゴラスが講義をするときには、弟子や地元の住民ら600人ほどが集まった。

 共同体には戒律もあった。
 「刃物で火をかき立てぬこと」。権力者の怒りや激情をつつき動かさないようにするということだ。「はかり竿を跳び越えぬこと」には平等や正義を踏み外すな、という意味が込められている。
 まだある。「松の小枝でお尻を拭いてはならぬ」「太陽に向かって小便をしてはならぬ」といったルールにいたっては、根拠がさっぱり分らない。
 ある日、共同体への入会を断られた男が仲間とともに集会を襲撃する。ピュタゴラスは老骨に鞭打って逃げる。が、豆畑の前で立ち止まり、男に捕まり首を切られる。80歳の生命にピリオドを打ったのは、自らが作った「豆を食べるな、豆に触れるな」という妙なルールを律儀に守ったためなのである。
 そんな奇妙なエピソードを知ると、ちょっと哲学の本でも開いてみるかな、という気持ちになる。
 それにしても哲学を小難しくしたのは、一体誰なんだ。


 
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