肴になった私の激励会
経済ジャーナリスト 阿部和義

阿部和義[あべ・かずよし]
1942年、東京都生まれ。66年東京大学経済学部卒業、同年朝日新聞社入社。長崎・前崎支局を経て、70年東京本社経済部に。兜町クラブ、農政クラブを経験して、73年に大阪本社経済部に。ここで金融担当として生命保険会社を取材する。76年に東京本社経済部に戻り、引き続き日銀クラブで生命保険や金融を取材。その後、科学・繊維・建設省・運輸省などを担当し、81年から財界。83年に名古屋本社経済部デスク、86年に財界担当、87年に編集委員。その後ニューメディア本部、電子電波メディア局を経て、2001年から速報センター記者、02年7月、60歳で定年。
現在は経済ジャーナリスト(阿部事務所代表)。主な著書に『生命保険の仕組みと実態』(教育社)『立石一真の研究』(かのう書房)『早川種三の会社は必ず再建できる』(中経出版)、共著に『リニア新時代』(ビジネス社)『政治献金の構図』(JICC出版)『信託銀行』(教育社)がある。

■辞めようと思ったことも
 朝日新聞社を昨年7月に60歳で定年退職した。36年3カ月の間、1度も休んだこともなく無事に卒業できたことを自分でも良かったと思った。11年前に経済部の編集委員からラジオテレビ本部の副本部長になってほしい、と言われた時にサラリーマンだから辞令が出たら従わざるを得ないとは思っていた。しかし、当時は書くことに自信を持っていた。「一丁、ここでフリーのジャーナリストでやってやろう」という大それた考えを持った。辞令に従わない以上は辞めるしかないと思って部長に辞表を持っていった。ところが、このことが社内に伝わると「辞めるのはいつでも辞められる。書きたいなら引き続き編集委員にしておいてやる」と当時の中江利忠社長から言われて辞表を撤回した。
 結局、編集委員として残ったものの、ラジオテレビ本部などから文句が出たことなどで、結局、編集委員は1年でくびになりニューメディア本部の幹事に替った。それから以後は定年まで電子電波の仕事だった。辞めたら経済ジャーナリストになりたいと思っていたので、定年の1年前は編集局を希望して「速報センター記者」になり卒業した。
 朝日新聞に在職していたうち、20年間は経済部の記者であった。その間にいろいろなことがあった。新聞記者の思い出は特ダネを取ったことである。私の思い出に残る特ダネをあえていえば「ジャパンラインと山下新日本汽船の合併」「明治乳業のいんちき牛乳事件の摘発」「住友銀行の磯田一郎頭取誕生の人事記事」の3本である。
 
■昨年9月に肴にする会開く
 昨年9月30日に日本プレスセンタービル10階で『阿部和義さんを肴にして懇親の会』を開いた。この会は友人のマルチサービスの角廣志社長とNHKの平岡潤六さんが「定年になったので激励会をしましょう」と言ってきた。それまでに高校の仲間、ゼネコン業界の人達、不動産業界の人達、飲み屋の仲間達が個別で激励会を開いてくれたので「もういいですよ」と断った。
 皮肉屋の角さんは「それならあなたが肴になって皆を集める会をしたらどうですか?」と粘ってきた。私が肴になって皆が懇親できるのは良いことだと思って決断した。
 場所の予約から出席者の名簿、予算を私がやらなくてはならなくなった。それからが大変だった。出席者の名簿つくり、発起人へのお願いなどを1人でやった。7・8月は汗をかきかき走り回った。それまで激励会をしてくれた高校の同期生やゼネコン、不動産業界の人は除いた。それ以外の人と朝日新聞社の人たちを中心にした。角さんが多ければ多いほど良いと言うので私の住所録から抜書きしていった。そうした作業をしている時に朝日の先輩から「なにか君の激励会をするらしいが、俺も出たいので案内状を出してくれ」という電話があったりした。この先輩は高校の先輩だが、住所録に載っていないためにこうした要求が来た。恐縮してこの先輩に早速、案内状を出した。飲み屋のママさんからは「阿部ちゃんの知っている石油化学メーカーの元専務も出たいと言っているので案内状を出してほしい」というものもあった。出来るだけ多くというので800人ぐらい選んだ。

■発起人に平岩氏ら19人
 発起人には財界担当の時の経団連会長の平岩外四さんや昭和電工名誉会長の鈴木治雄さん、経済同友会代表幹事の小林陽太郎さんなど19人にお願いした。生命保険業界からも2人に頼んだ。全部の人が快く引き受けてくれた。平岩さんには当日挨拶してもらおうと思った。ところが、原発のデータ隠しで東電の相談役を辞任し顧問になったばかりということで断られた。
 最初に90歳になる鈴木治雄さんに挨拶をしてもらった。鈴木さんは「阿部さんは当時の経団連会長に対する批判を私の名前で書くので兄が心配していた。阿部さんはそういう恐ろしい人です」という短い挨拶をした。次は朝日新聞社の元専務・大阪代表の浜田隆さんで次のような厳しい挨拶をした。
 「私が東京の経済部デスクの時、阿部君の原稿は誤字、脱字の連発でその上に誤りを指摘しても頑として正しいと言い張る。総スカンクと書いてきたのでそれは総スカンだといっても総スカンクと言い張った。確かにスカンクのようにくさい臭いを出すので嫌われると言うのはその通りなのだが──」
 満場は笑いの渦。私はこの日は「肴になる覚悟」でただ檀上で苦笑い。
 次の岡田茂・東映取締役相談役も「阿部君は今まで話があったようにすぐに書いてしまう。石川六郎・日商会頭に対して私が『総論の六』と言ったらすぐに書いてしまい、私が言ったということになり迷惑した」と肴にされっぱなしであった。途中で挨拶した小林陽太郎・経済同友会代表幹事は「これだけの人脈を持った阿部さんにはこれからもこうした集まりを是非していただきたい」と述べた。出席者の1人は「まともな挨拶は小林さんだけ。阿部さんがかわいそうだったね」と言う人もいた。
 しかし、私が肴になることで座が盛り上がり久しぶりに旧知の人に会って良かったと、喜んでいる人も多かった。集まった人は320人にのぼった。日銀総裁だった三重野康さんも、日銀総裁になる福井俊彦さんも来てくれた。定年になって頼れるものは朝日新聞時代に築いたネットワークだとつくづく感じた。
 肴にする会の会場の2階下の8階に定年と同時に「阿部事務所」を設けた。生命保険文化センターの隣にあり、早速、広報の人と連絡を取り合って昔のことを語り合った。生命保険文化センターが出来た時、私は生保の担当記者だった。

■文化センターも創立後27年
 私が定年になるように生命保険文化センターも今年で設立以来27年になる。人間の一生にたとえると今や働き盛りである。7年前の20周年の時に発行した『20年のあゆみ』の中で私は次のように書いた。
 「未曾有の厳しい経済環境にあるが、初心を貫いて消費者指向に徹し、社会的評価・信頼を獲得しなければならない時期である。その一つの基準が生命保険教育の分野であろう」
 あれから7年経ち私も朝日新聞から独立して経済ジャーナリストになった。生命保険文化センターは消費者向け冊子を30万部、相談業務を年7千件、学習会への講師の派遣をしてるほか、ホームページも作るなど地道な活動をしている。経済状況がますます厳しくなる中で、生命保険の必要性は高まるばかりである。なにかと縁がある生命保険文化センターの活動を世間の人に知らせていきたいと思う。
 
戻る