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| 地中海に面したエジプトの古都アレキサンドリアの大統領別邸でサダト大統領(暗殺)の夫人と会見(1971年) |
健康と体力には絶対の自信を持っていた。それが自信過剰になって人生の転機にぶつかった。
新聞社の海外特派員として、それも戦争やクーデターの取材を得意とする「動乱特派員」として世界中を飛び回っていた。外国で肝炎をやったのに仕事を休まなかった。 仕事が一段落してある外国の総合病院で検査を受けたところ、「本当なら死んでいたよ。体力があったから助かったのだ」と言われた。この「一病」で深く反省すべきだったのだが、記憶に残ったのは「体力があった」の一語。ますます体力に自信過剰になった。30歳のころである。 |
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中国から訪問した学生グループに特別講義。
神戸外語大で(1989年)
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それから約30年が過ぎて、私は神戸市外国語大学で国際政治を講じる教授を勤めていた。健康診断で過労による症状がいくつも見つかった。「過労」などという言葉は「私の辞書にない」と言いたいほど意外だったが、冷静に考えれば無理もない。自宅のある横浜から毎週、新幹線で神戸との間を往復。事務的な用事もあって週に2往復、3往復することもあった。風邪をひいた時などを除いて、休講ゼロだった。 |
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| 大統領選に出馬したこともある
ゲッパート米国民主党下院院内総務と会見。ハワイの日米会議で。中央はハロラン元ニューヨークタイムズ紙記者(1991年) |
大学の外の仕事もやった。たとえばテレビ出演。早朝、東京で全国放送に出た後、午後には神戸で教壇に立ったりした。キャンパスで出会った仲間から「今朝、テレビで先生を見ましたよ。あれは録画でしたか」などと聞かれておかしかった。
湾岸戦争のころがピークだった。夕方、大阪のテレビ局で全国ネットのニュース解説をし、神戸に戻って学生とコンパ、夜遅くのニュース解説のためまた大阪へ向かったりした。大阪のテレビ局で深夜のニュースショーを終え、車で東海道を走り、翌朝の東京のテレビ局のニュースショーに間に合わせた。「かつて山口百恵も大阪と東京を車で移動しました。先生はそれ以来かな」と、テレビ局のスタッフは妙な感心の仕方をしてくれた。
全国各地の講演先で、その地元のテレビ局から全国ネットで中継したりするから、よく「神出鬼没ですね」と呆れられた。 |
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TBSテレビ「サンデーモーニング」に出演中(中央)
(1991年) |
医者は「短時間に長距離を移動するのが一番の毒です」と宣告した。「毎週の新幹線通勤をやめろ」ということか。神戸に居を移すと、内外の情報から遅れる心配がある。情報はやはり東京なのだ。東京から離れず、新幹線移動をやめるとなれば、大学を辞めるしかない。定年まで数年、大学当局からは「新幹線の中で死んでこそ名誉の戦死だ」などと時代遅れの言葉で慰留された。 |
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| 阪神大震災に遭遇し、自分は命拾いをしたが、多くの知人を失った。彼らの分も生きながらえ、自分の納得する仕事で人生を全うするにはその決断しかなかった。年を重ねて体力の自信過剰はもはや無く、冷静にわが身を評価できた。自分の人生を自分で取り仕切っているとの満足感もあった。唯一の無念は若者と接して議論する機会が大きく失われたことだ。 |
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