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第5回
こんなはずじゃなかった
  富士山の頂上からスキーで直滑降、これで時速170キロくらいのスピードがある。ブレーキにパラシュートを使う。こうしたマンガじみたアイデアにとりつかれて、実験、失敗を繰り返して3年間も、ただひたすらフジ、フジで明け暮れていた。
1966年富士山直滑降
????  だが、「絶対やれる…」という確信があるかと思ったら、不意に不吉な思いが浮ぶ。一流の登山家がピッケル、アイゼンに身を固めても、ちょっとした足のもつれや突風であっという間に滑落死。
  ましてやスキーで…
  子供達も可愛く育って家族は温かい、平和な楽しい生活、仕事があるのに。
  なのに、わざわざ死の危険を承知でこんなことを。
  さらに「ホラ吹き」「売名」「一発屋」…神聖なる富士をなんと心得ているか…
  世間のぼくに対する批判や非難、まるで罪人扱いだった。
  ぼくにとって「生死」のギリギリをいかに突破しうるかというのに、しかし考えてみれば、頼まれもしない大騒動?をやらかそうとするからには、そうした非難があっても仕方がない。
  それだけならいいが、あるスポーツ新聞紙に「二重契約」、「スポーツマンにとって恥ずべき行動」なんて、でかでか書かれる始末。
  そういえば記録映画を作るという話の時のぼくの返事があいまいだったのかもしれない。その節はよろしくお願いします、と言ったのを、その記者は自紙に決まったと勘違いしたらしい。
  こんなはずじゃないのに…と言ってもでかでか記事にされてしまうし。
  そんなある日…1966年3月、大型ジェット機が晴天の富士上空で大爆発、百数十名全員死亡。
  このニュースを見て、富士山は中止と決めた。
  ぼくは平和な暮らしに戻った。スキー教師として、一日が終れば、夜はストーブを囲んでビールを飲み、歌い笑い…
  ところが、冬の終わりが近づくにつれ、どうにも虚しい気持ちが湧き上がってきた。
  「雄一郎よ、もしおまえが六十才になった時、どうしてあの時やらなかったか…」
  後悔先に立たず、と言うけれども、いつの間にか、後悔を先に立てていた。
  30才、人生をドライブしながら、時おり流れて戻らぬバックミラーの中に「あの時やっておけば…」と決断をためらったばかりに悔しい思い、後悔なんていくらしても意味はない、それよりもやるべきことが今あるはずだ。
  再び、富士山に還った。
  成功か失敗か、生きるか死ぬか。
  そうしたことを、行動する前から決めるなんて。その行動が正しく、その努力の全てが本物であるなら、必ず生きて帰ってくるはずだ。
  改めて、富士山に挑むということが、ぼくにとって、演技ではなく、そうしなければ、自分自身の存在を歴史に問えない「志」だったのだと気がついた。
  自分の誇り、志、に賭けよう。
人がなんと言おうとも、どんなことがあろうとも。
2003年エベレスト登頂後ベースキャンプにて
????  富士山頂からの滑降は成功した。
  その間わずか一分半。
  「生と死」は、生きる方に解放された。ぼくは、今滑ったあの富士の白い斜面がはるか青い天空へと続いているのを見上げながら、「やってよかった…」
  その喜びは、人と人との荒事で明け暮れていたスキーレーサーの頃と、まるで異質のものだった。「生死」を越えた感動、そこには賞状もトロフィーもない、しかし、富士山が生涯の心の偉大なトロフィーになった。
  このニュースはテレビを通して世界に流れた。あれほどの非難誹謗が、いつの間にか消えていた。
 
Profile
三浦雄一郎
[みうら・ゆういちろう]
プロスキーヤー
1932年 青森県生まれ。プロスキーヤー。北海道大学獣医学部卒業後、1964年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加、時速172.084キロの当時の世界新記録樹立。1966年富士山直滑降。1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネスブック掲載)を成し遂げ、その記録映画 [THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST] でアカデミー賞を受賞。1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。2003年5月、次男で元オリンピック選手の豪太とともに世界最高峰エベレスト山(8,848m)登頂。世界最高年齢登頂(70歳)と初の日本人親子同時登頂の記録を樹立(ギネスブック掲載)。アドベンチャー・スキーヤーとしてだけでなく、生徒数全国1万人の広域通信制高校、クラーク記念国際高等学校の校長として、また行動する知性人として国際的に活躍中。
発行/(財)生命保険文化センター