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こんなはずじゃなかった
  「イヤーッ、簡単ですよ。盲腸の手術だなんてアッというまに終わりますよ」
私は医者からその言葉を聴いたとき、骨のシンからの緊張が消えていった。
  手術を待つ入院部屋は二人用だった。隣のベッドには50歳ぐらいの男性が横になっている。私が病状を聞くと彼は静かに話し出した。
  「呼吸をすると胸が痛いんです。医者はそれを止めましょうと言ったのだが、痛みを止めるのか、呼吸を止めるのか、それが心配で」
  私は彼を相手にせずトイレに立った。
  トイレでは二人の入院患者が手を洗いながら話をしている。「あなたのお父さんは自然死でしたか?」「いいえ、ちがいます。父は医者にかかっていました」
  手術前には聞きたくない話の内容だ。
  そして、その帰りに何げなく私が手術をうける部屋をのぞいてみた。
  ぞーッ、背すじに寒いものが走った。
  そこに並べられた数多くの器材、するどいメス、ハサミ、酸素ボンベなどなど……。
  こんなはずじゃなかったぞ。「手術は簡単ですよ」と先生が言ったではないか。このメスやハサミが私を切りきざむのか。話がちがう。……冗談ではない。逃げろ。私は一目散に病院から脱走をはかった。
 呼吸(いき)もきれぎれに喫茶店に入って、アイスコーヒーを飲む。「手術の前の夜からは何も食べないでください」と言われて、がまんしていたので腹ペコだ。サンドイッチをつかみ食いした。さあッ、これで手術はできないはずだ。食べたんだからな。
  妻が青い顔をして、私をさがしに来た。「いいよ、わかった。病院に行ってやる」。
 そこには、あきれはてた医者の顔があった。バカにしたような看護婦の目があった。コーヒーを飲み、サンドイッチを食べたことを医者につげると、
   「いいですよ、それくらい。さてッ、手術といきますか」
  なッなんだって?! そんな……。こんなはずじゃなかったと、恐怖のあまり全身麻酔にしてもらった。
  頭の中で 星が一回転して流れ、気がつけばベッドのそばで妻がうまくいったと微笑んでいる。あのまま盲腸をほっとけば命とりになる……。やっと冷静に考えることができた。これで良かったのだ、いくじなしめ。
  隣のベッドのおじさんが退院するらしい。医者からの請求書を見て さけび声を上げた。「高いなあ。前はもっと安かった。これだけ払えば一年間は入院できた」
  こんなはずじゃなかったと彼は舌うちしながら帰っていった。
 
Profile
はらたいら 漫画家
1943年 高知県生まれ。漫画家。
代表作として「ゲバゲバ時評」「モンローちゃん」「メロンちゃん」「日記ちゃん」「セロリン」「グルくん」など。
TBS系クイズ番組「クイズダービー」(76〜92年)のレギュラー解答者として出演し、人気を博す。
ベストドレッサー賞(84年)、日本雑学大賞(同年)受賞。国際漫画大賞審査員(読売新聞社主催、97〜99年)、まんが甲子園審査(高知県主催、97〜05年)などの審査員も務める。
また、「男も更年期がわかると楽になる」(主婦の友社)、「はらたいらのハラハラ人生劇場」(三省堂書店)など著書も多数。
雑誌、機関誌、新聞などにおいて、漫画、対談、随筆などを多数連載中。
発行/(財)生命保険文化センター