酔って転んだあげくの果てに
日本工業新聞社編集委員 原 誠
原 誠[はら・まこと]
日本工業新聞社編集委員。
1953年長野県飯田市生まれ。77年慶応義塾大学文学部卒。「株式市場新聞」記者、家業の原ホンダ勤務を経て86年日本工業新聞社入社。エレクトロニクス、エネルギー、機械などの業界や通産省、財界などを担当したあと、96年経済部次長、98年産業部次長。2000年日銀クラブ詰めを経て01年経済部長。そして02年4月から現職。
 「お父さん、帰るよ」。妻の声で我に返ると、そこは深夜の病院の静まりかえった待合室だった。深酒のせいで、意識や感覚はもうろうとしているのに、両腕の肩から手の先までを火箸で貫いたような痛みだけが鮮明に伝わってくる。忘れもしない、1997年師走のことである。
 南麻布救急隊の連絡を受けて迎えに来た妻が帰りのクルマの中で説明するには、東京・六本木の歩道橋のたもとで倒れているのを通りがかった人が見つけ、救急車で近くの某大学病院に運び込まれたのだという。額に小さな傷ができていたためか、その病院では頭部のレントゲンを撮影しただけで異常はないと判断したのだろう。妻は看護婦に「大きな声で騒いだので、酔いが覚めたら叱ってください」と言われたそうだ。そういえば、「この腕の痛みを何とかしてくれ」と叫んだ記憶はおぼろげながらある。
 翌日は天皇誕生日。一睡もできずに、朝が明けるのを待ち、妻の運転するクルマで埼玉にある自宅近くの休日診療指定の病院に向かった。クルマが道路のちょっとした段差を乗り越えるだけで腕に強烈な痛みが走る。外科的な痛みというものは、時間の経過とともに和らぐと信じていたが、そうではない痛みもあることをこの時初めて思い知らされた。その病院では、1時間近く待たされたあげく、アルバイトの若い医者が診察。簡単な問診だけで下した診断は「凍傷かもしれませんね」。「はあっ?」と私。「いや多いんですよ、酔って道路で寝込んで凍傷になる人」とかで、効くはずのない痛み止めをもらって帰された。
 次の日も痛みが和らぐことはなく、今度は自宅近くの整形外科クリニックに行く。そこでは、指を自由に動かせないことが判明。痛みをこらえるために腕から指先までを棒のように突っ張ったままでいたので、気がつかなかったのだが、医者に言われて指を順番に折り曲げようとしても、自分の意思が指先に伝わらない。しばらく通院して様子を見ることになり、会社に提出するための診断書を頼むと、捻挫の類による両腕麻痺といった趣旨のことを書いてくれた。
 1日置いて、再びクリニックに行くと、前回診てくれた院長とは別の医者が診察室に座っている。その医者は、カルテと問診で状況を確認したあと、腕や指を動かさせてみて、「首をやられてますね」と自信に満ちた一言。「MRI(核磁気共鳴診断装置)で撮影すれば、はっきりします。私の病院で良かったら予約しておきますよ」。聞けば、埼玉北部の某市にある日赤病院の整形外科部長で、クリニックには週1回アルバイトに来ていたのだ。ここに至って、ようやく病因が判明した。「頚髄損傷」である。
 日赤病院でMRI撮像を見ると、首の骨の中央を縦に走る神経が途中で絞られたように細くなっている。神経が周囲の組織に圧迫されているためで、特別な原因がなくても年をとるに従ってそうなることがあるのだという。私の場合も、そういう体質だったのだろう。そこに、歩道橋を踏み外して転んだときの衝撃が加わり、一気に神経を傷めたに違いない。首の神経は、脳から四肢の先端に意思を伝達する働きを持つ。そういえば、腕だけでなく、両足の膝から先も膏薬を張っているかのように冷え冷えするし、歩くときにわずかだが、つま先が遅れて出るので足がもつれる。
 そこで、新しい年が明けるとともに入院。首の骨の間に人工骨を入れて、神経の周囲を広げる手術を受けることにした。首の骨はリングを重ねた形をしている。そのリングの一つひとつを縦に切断し、断面の間に1cm四方の人工骨を挿入するのだ。上から数えて3番目から6番目の骨まで計4枚の人工骨を入れた。メスを入れる場所は、首の前と後ろの二つのケースがあるそうだが、私は後ろからだった。執刀した主治医は頚部専門で、この手の手術の経験が豊富。部長以下、整形外科病棟の医者全員が立ち会ってくれるし、何の不安もなく我が身をまかせることができた。
 手術の前に、彼らは決して私に気休めを言わなかった。今の医療技術では、神経そのものを治療することは不可能だからと、症状の改善を期待させるようなことは一切言わないのだ。せめて腕の痛みくらいは消えるだろうと質しても、それすら「わからない」と言う。ただ、放置しておけば、今度転倒したときに、両手足とも完全に麻痺するかもしれないと脅かす。その率直な患者への接し方に信頼感を持てた。
 結局、完治とはいかないまでも記者生活に支障をきたすことのない状態にまで回復、ゴールデンウィーク明けに職場に復帰できた。入院給付と手術特約の付いた生命保険に入っていたのと健康保険の高額医療費補助のおかげで、経済的にも困ることはなかった。
 ただ、今でも釈然としないのは、病因がわからなかった医者たちのことだ。頚髄や脊髄のケガはとりわけスポーツの世界でポピュラーだし、症状からみて最初に疑ってもいいはずだと思う。今、病院や医者を格付けする動きがあると聞く。そこまで必要かどうかわからないが、酒癖が良い方ではないことを棚に上げて言わせてもらえば、痛みに耐えられないでいる患者を原因もわからずにそのまま帰すようなことはしない医者のいる病院がどこにあるのかということだけは知っておきたい。
 
戻る